広く深く知りよく生きようとすることが本質的ではないのか

芸術、創造に興味のあるかたは、ご覧いただければ幸いです。


一般に、何か−特に芸術作品−を作るということに関して現時点で思うのは、

結局、創作意欲が湧いてこないにもかかわらず、何かを無理やり作ろうとする姿勢は違うんじゃないかということです。換言すると、作ることが目的化してしまうのは違うんじゃないかと言いたいわけで、それより「よく生きる」ことこそが生命にとって本質的だと私は思うのです。「広く深く見る」ことができ、かつ、「よく生きよう」とするのなら、自然に、あるいは作らざるをえない心身の状態に陥った結果、その時代に必要とされる作品、あるいは時代をこえて必要とされる作品の創作に徐々に近づいていくと経験的に思うのです。もっとも、これがすごく難しいのですが・・。広く深く見るためには、「開く」こと−例えば、様々なものや人に触れ、学び、考え、体験し、訓練を重ね、豊かに自身を耕すこと−が大切でしょう。一方で、「閉じて」−つまり、コミュニケーションや刺激の頻度を低くしておいて−熟成させる期間も必要でしょう。これらの態度は、よく生きることにも結びつくでしょう。そして、もちろん表現にあたっては卓抜した「技術」が必要な場合が圧倒的に多いでしょう。その技術は人それぞれで、それは文字かもしれないし、筆かもしれないし、楽器かもしれないし、身体表現かもしれないでしょう。


書いているうちに、昔のことを思い出しました。


私は小中高もの長きに渡って、様々な行事の感想文や読書感想文が嫌いで仕方がありませんでした。どうしても言葉が出てこなくて書けないのです。書けたとしても一文か三行程度だったり、提出しないこともしょちゅうありました*1。今にして思うと、「なぜ私はこの感想文を書きたくないのか」について書けばよかったのだと思います。この方が、無理やり書かされたものや、ありがちな展開の感想文よりかは、はるかに上等な言語表現だと思うのです。そして、そういうところから、内省による心の陶冶やクリエイティブライティングということの意味がわかってくると思うのです。創造性を育むという観点では、この方が教育的に優れていると言えるでしょう。おそらく当時の私は、「感想文ではだいたいこういうことを書かなくてはならない」というような教条(固定観念)に囚われていたのかもしれません。書きたくないという強い衝動は存在した−つまり、モチーフはあった−わけですから、もしそういう固定観念がないのなら、その衝動を素直に書きつけることはできたと思うのです*2


翻って私は今、文章を書くのが大好きです。と言っても、少し前までは、好きだから書いているというよりかは、書かざるをえないから書いていました。日記を常に持ち歩いていて、道で歩きながらでも、どんなところでも、四六時中、内から湧き出てくるものを書き続けていました。当時は書くことにより心身のバランスを整えていたのです。つまり、大げさではなく生きのびるために書いていたのです。そして、そういう状態においては(おそらくどんな人でも)当人の命の重さに匹敵する強度の表現が生まれるということを知りました。また、そういう状況において徹底的に自己を掘り下げることにより、普遍性や時代性に通じうるということも知りました。そして、過去のアーティストの中にはそのような方々が少なからず存在するということにも、作品や著書を通して気づきました。芸術表現の根底にある原初の衝動は多くの場合、コミュニケーションの欲求ではなく、「心身のゆらぎから回復する過程で生じる内的衝動」*3だと思うのです。また、技術的な拙さのゆえに、思うような表現に至ることができず、結果、十全に他者に伝えることができないということも思い知りました。私が創作について冒頭であのように申し上げた背景には以上の経験があるのです。


最近は、当時のような書かざるをえない傾向がほとんどなくなりました。少し出てくるものを書きとめたり、書くことにより思考を整理したりすること、そして伝わる形に練り直すことが、書くことのほとんどの目的だと思われます。今は閉じている状況なのでしょう。こういうときには熟成させたり、技術を磨くことに徹するとよいのだと思っています。

今後、再び開くことにより、創作の衝動や発想は湧いてくるでしょうし、生命力もみなぎってくるのではないかと期待しています。



追記

しかし、スポーツでも芸術でもお笑いでも、どの世界においても一流というものは、本当にすごいものだと以前にも増して思います。このことは、私が以前の私と比較して、彼ら一流の人々を自分と同じ一人の人間として、より身近に感じることができるようになったことを意味します。これは傲慢や思い上がりからくるものではありませんし、実際、私はあらゆる分野において一流ではありません。上記のように感じられるようになったのは、以前に比べ、努力の仕方や心身の導き方、身体の特徴といった物差しにより、彼らと自分を同じベクトル上に乗せることが可能になったからだと思います。これにより、自身が一流でなくともあらゆる一流から学ぶことが可能となり、鑑賞や観戦の楽しみが増したことはうれしい限りです。

書においても、もちろん一流は存在します。私はまだまだ見る目が養われていないと思われるのですが、それでも圧倒される作品に出会うこともあるのです。例えば、手島右卿という書家の作品は、なんというか、有無を言わせぬ存在感と説得力で迫ってくるのです。おそらく、技術が向上し、感性がよりいっそう育まれるにつれて、今はまだ知りえない多くの美や技術の妙を発見することになるのでしょう。そういうことも楽しみにしつつ、しっかり腕を磨きつづけたいと思っています。

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*1:覚えている限りでは、別におとがめはありませんでした。

*2:つべこべ言わずに書けよ。

*3:吉本隆明さんの言葉を借りれば「自己表出」