もう中学生は偉大である

ぼくが通っていた中学校は、詰襟の学生服だった。

「カラー」というポリプロピレンか何かで出来たプラスチックを襟の内側に固定し、あごの下についている金属でできたホックをかけることを強制された。

そうしないと、校則違反だからダメだと言われた。

カラーは常に首にあたって痛いし、夏には汗を吸わないからベトついて気持ち悪いし、冬には冷たいし、真剣に考えてみたけれど、まったくそれらの効用が見いだせなかった。

むしろ、勉学や学生生活にとって妨げでしかなかった。

本当はもっと心地よく勉強を、生活をしたかった。

それでも、当時の僕は個が確立されていなかったから、長いものに巻かれて三年間それを着用し続けた。

でも今は違う。

たぶんというか、ほぼ確実に今のぼくが中学校に学生として通うことになったらあの制服は着ないと思う。

おそらく、スウェットにジャージとスニーカーで、リュックを背負っていく。

学校指定のカバンは重い物を持ち運ぶ際に、身体への負担が大きすぎたし、加えて機能的でなかったから使用しない。

制服を改造するなどといった、枠組みの中でもがくようなこざかしくてダサいことはしない。

卒業式や入学式等の式典の際には、周りに配慮をしてスーツを着ていくかもしれない。

校則違反だぞと言われたら、「はい。存じ上げております。」と笑顔で答えるかもしれない。

しつこい場合には、「察しいたしますが、勉学の邪魔になりますから、その話はせめて週に一回程度に控えていただけませんか」という展開になるかもしれない。

そして次の日は制服で行ってみる。

その次の日は制服を着ない。

ツンデレである。

これで笑ってくれたりツッコんでくれたりするのなら、なかなか大人だなと思うのだろうけれど、きっとそうはならない。

その後、もっとしつこく勉学の妨害をされた場合には、

「お忙しいところ申し訳ございませんが、少しお時間をいただけますか。一つ質問があるのですが、伝統ということの意味、イニシエーションの役割、帰属意識を高めることの長短、機能性、様々な面から検討を加えたうえで、ひとまずあなたの職業上の責務はおいといて、ひとりの大人の人間として、この制服と、この制服を強制することに対するあなたのお考えを聞かせていただけませんか。そして、ルールというものに対する捉え方をあわせてお聞かせいただきたい。仮に保身に走っておられるだけで、自分の思想をお持ちでないのだとしたら、申し訳ございませんが、あなたとこれ以上お話しても何も生まれませんから、おひきとり願います」

と言うことになる。

そして次の日は制服で行く。

このへんのバランス感覚は大切にしたい。

学校が終わり次第、言動がだいたい読める校長先生はすっ飛ばして、教育委員会と市長、市議会議員にアポをとってさっさと話をつける。必要ならば弁護士にも相談するし、生徒会長に就任するか、実行委員会を組織して内から改革をしてしまうという選択肢も検討する。顛末をネット、新聞への投書などを活用して情報発信する。

そうしながらも、淡々と勉学をはじめとした自身のやりたいことは進めていく。

この過程で心労から病気になってしまう先生がいるかもしれない。

見舞いにはもちろん行く。

その後、あまりにもオオゴトになるようであれば

「皆さん、まあ一度落ち着いて考えてみてください。何もシリアスな問題は起こっていないのですよ。そんなにオオゴトのように捉えなくてもよいのですよ。一度深呼吸をしましょう。ともかく皆さん、今後ともよろしくお願いいたします。」

と言う。

こんなに些細なことでクソマジメになってはならない。

これが一番大切なことなのだけれど、この、中学生にしてはタフなネゴシエーションの過程で、ぼくの心身はきっと極めてリラックスをしていて、幸せで満ちあふれた毎日をすごすことができていると思う。

これをもって、また少し大人になれたのだと、ぼくは判断する。


たしかにルールは大切である。

けれども、ルールをつくるのは人間だし、ルールはより適応的なものに変えていく必要がある。

その過程でカドがたつこともある。

でも、カドにもたてかたというものがあるし、誰かが生贄にならなくてはならないときもある。

生きのびるためには、ときにそういうことも必要だと思う。

けれども、ピンで頑張るのはなかなか大変なのである。

「もう中学生」*1が偉大な所以である。

中学生当時を振り返ると、教職員のお一人お一人は、大事な思春期のまっただ中にいる生徒のひとりひとりに対して、まだ中学生ではなくもう中学生として、ひとりの人間として接することをもっと重視してもよいとぼくは思う。