解体すべき伝統と残すべき伝統―お雛様が危ない

本日は大変足元の悪い中、当ブログにお越しいただきまして、誠にありがとうございます。


どういうことか。


先日、ある集会にて弁士のうち二名から

「本日は大変足元の悪い中」で始まる、何の熱もこもっていないステレオタイプな切り出しをくらって 

本気でコケそうになった。


数日前に三重県伊賀市

極めてeagerにして倫理的な生き方をされている農業者のかたにお目にかかり

胸が熱くなっていただけに、なおさら、その温度差が際立つ形となった。


なんとか手垢にまみれた「本日は大変足元の悪い中」を解体し

生きた言葉としてリジェネレーションできないものか。

あれこれ考え、思いついたのが冒頭の表現である。



表現といえば、

『世界にはばたく「交流ネットワーク都市」』

どの都市かご存知だろうか。

察しのとおり、正解はこのまち*1なのだけれど、

この上滑り感*2の背後に潜むメンタリティに

真摯に向き合うことにより、きっと故郷はますます魅力を帯びてくる。

ぼくはそう思う。


魅力といえば、舞鶴市在住の皆様にどうしてもお知らせしておきたいのだけれど

東舞鶴駅前、三条朝日南にいい意味であきらかに浮いている場所がある。

ギャラリーサンムーン*3

おそらく舞鶴市で唯一の(クオリティの高い)ギャラリーである。


今日伺ったところ、京人形のお雛様の展示が行われていた。

ぼくは京人形を「ちゃんと」見るのは初めてで、

こういう場合、大抵、最初は心にしみこんでこない。

つまり、よさがわからない。

この段階で、「好みじゃない」「好みは人それぞれ」と言って片付けてしまっては自身が磨かれない。

こういう時には、時間をかけるとよい。

しばらくのんびりと眺めているうちに、

気品あふれる佇まいに気づくと同時に、心身が変化していくのを感じる。

時間の流れ方が変わり、ジーンと感動が込み上げてくる。

(ある種の)芸術鑑賞とは、極めてデリケートなコミュニケーションなのである。

心を落ち着け、体のリキミを取り除き、全身の感覚を鋭敏にして初めて成り立つコミュニケーションがある*4

それは日常に計りしれない充実と感動をもたらすし

何より人間の心の機微がわかるようになり、圧倒的に生存上有利に働く。

と、経験的にぼくは思う。

最初はピンとこなくてもよい。

足繁く、いいモノを見るために足を運ぶこと。

そして、鑑賞に時間をかけること。

ずっと真剣に見続けなくてもよい。

その作品が存在する空間に身を置き、誰かと話をしていてもよい*5

そうしているうちに、きっと心身が変化する瞬間が訪れる。

ちなみに、ぼくのお寺の味わい方は極めてシンプルで

「自分の家だと感じられるまでのんびりする」のである*6

そうすることで、初めてよさがわかってくるとともに、生活空間についての知恵が得られるのである。


話を戻す。


丁寧に筆を入れられたお雛様は

その上品な表情に全くクセがないから、特定の感情を強制されず

いくら見続けても見飽きない。*7

そうオーナーさんに申し上げたところ

まさしくそれが京人形職人さんの狙いの一つで、職人の世界ではそれを「品がある」というのだという。

そして、品のあるものを作るためには、自身の心が綺麗である必要があり、

そのためには長きに渡る間断なき自己修養が必要なのだと伺った。

現在の日本においては、芸術家や伝統工芸職人は、

いくら腕が確かであっても、作品販売だけでは食えない場合が多い。

そして、熟練した腕前になるためには、途方もない時間と努力を要する。

だから、京人形という伝統工芸品の製作過程*8の中には

継ぎ手が現れず、当代で絶えてしまうものもあるのだという。

この担い手不足は深刻である。

なんとかしたいがすぐに名案が浮かばない。

だから、せめて皆様にお伝えしておこうと、苦し紛れにこの記事を書いているのである。

*1:http://www.city.maizuru.kyoto.jp/

*2:失礼!

*3:http://gallerysunmoon.web.fc2.com/index.html

*4:http://d.hatena.ne.jp/okayasukenji/20070224/1233238847

*5:ということは、作品を置く空間の設計が重要だということです。そして、自宅に芸術作品を飾ったり、いいモノを置くことの効用の一つはまさにこの点にあるのだと思っています。

*6:僕はお寺に行くと必ず裸足になりますし、京都の龍安寺枯山水を眺めながら縁側で寝転んでしまうほどデリカシーがないのです。

*7:日本美術にはそういうものが多い気がする。

*8:製作過程は細分化されており、その細分化された過程のそれぞれに、卓越した技術をもつ職人がいるという。