自分の考えとは・器とは・幸せとは

なんというか、「(自分の)考え」というのは、しばしば、それが生まれた瞬間に、安心感が得られると同時に固着してしまったり目的化してしまったりして、現実世界の変化からその「考え」はどんどん乖離していく気がする。言葉は「惰性」を生む。いい風に言うと「一貫性」を生む。固執しすぎることなかれ。されど、軽んじることなかれ。一瞬一瞬の自身の安定点が「(自分の)考え」だと言えるだろう。様々な人や物とのコミュニケーションを図ることにより固着していた考えは再び流れ始める。


人間の器というものは、当人が落ち着いて人間的、倫理的に振る舞い、合理的に思考できる状況の劣悪さの程度とレパートリーにより量ることができると思う。楽な状況で他者に配慮したり優しくできている例はよく見られるし、劣悪な環境において他者に対する配慮を欠いたり、法を犯すことにより適応しているパターンもよく見られる。楽な状況において(自身の、あるいは他者の)器の輪郭を把握することは難しい。劣悪な状況に陥ったり、慣れない環境に身をおいてはじめて(自身の、あるいは他者の)器の端に触れることができる。小さな器でもいいから、せめてきれいな形に整えたいし、少しずつ大きくしていきたいものである。


幸せとは何かを普遍的な言葉で簡潔に語るのは難しいし、自分にとって何が幸せなのかを具体的かつ十全に言語化することも難しいけれど、自身がまさに今幸せなのかどうかを大雑把に判定するのはそう難しいことではないと経験的に思う。顔の力を抜いて、鏡で自分の顔、特に目の下から頬にかけてを見ると一目瞭然である。

拍手する