日記はいいぞ―自己教育のための日記のススメ―本当の美容とは・自分の意識を観察することの効用・原則ぼくは正直でありたいなど

日記はいいぞ―日記は本当の幸せを希求する道の人に必携のツールである

毎日、日記に率直な考えや気持ちを綴っていると*1

後々、自身の変化を観察できるから自己教育にとって有用である*2

*3の日記を開いてみると、内容が拙くて、「こいつ未熟だな」と、
子どもを温かく見守るような目で眺めることもあれば、
逆に、書いてあることの意味がわからなくて「こいつ賢いな」と思うこともよくあるし、
今では思いつかないようなアイデア等が綴ってあり、「こいつおもしろいな」と思うこともよくあるし、
今とは比較にならないほどの鋭敏な感受性をもっていたり、苦しみの中で誠実に生きようともがいていたりして、
「こいつ素敵なやつだな」とか「こいついいやつだな」と思えることもしばしばある。

日記を書くことの効用は、少なくとも、もう一点あって、毎日、日記で自分の感情や考えを記述していると、
最初こそ構えてしまって自分を飾ってしまうことがよくあるのだが、次第に自分の感情や考え、出来事を素直に記述できるようになるとともに、文字として書かれた自分との対話がはじまり、結果、心のいびつが解消されていくということが起こる。

こんなふうに、適度な自己肯定感を持ちつつ、自身の進歩(あるいは変化)に気づくことができ、さらには心のいびつが解消されればきっとうまく生きていけるし、それが周囲にも波及してよい影響を与え、結果、充実した迫力のある文化の形成につながる=次の世代の幸せにつながる。
はずだ。


ちなみに、今は書くモチベーションと必要性があまりないから、基本的には書いていない。

ある状況群が整えば、自然に書かざるを得ない状態に陥ると、私の経験は言っている*4。だから、そういうときに書けばよいと思っている。




それでは、約5年前の日記を見てみよう。

豊かな感性と健康な心身と知的好奇心があってはじめて人は本当の幸せになれる

2007年8月21日の日記

もう なんだか ぼくは

都会がいやになっちゃったなあ

木はやさしい

ぼくが思いっきり こころをひらいて

近づくと やさしい歌をうたってくれるから

人間は怖い へたに心をひらくと

ナイフでグサッと刺してくるから

お父さん お母さん 直ちゃん*5

ぼくは 都会の生活につかれました

大きくて 粗雑な声のする

都会から離れて

よほど 耳をすまさないと

聞こえない しゃべらないものたちの

声をききたい。

大地に 自然に 虫たちに

鳥たちに 木や花たちに

囲まれて 思いっきり 心を

五感をひらいて 会話をしたい

うぐいすのような

きれいな声で鳴きたい。

これは実質的な遺書である。
人間関係等に疲れて衰弱している人に共通して見られる発言であるとともに、
人間の命を輝かせるための環境を切に求める発言でもある。
当時の色々な自身の未熟がもたらした災いによるところも大きいけれども、
後半の「大きくて 粗雑な」以降の思いに関しては今も同じである。
当時と比較して、今はずいぶんと感性が鈍った。
感じる喜びは減ったけれども、楽で生きやすい。
感受性が鋭敏すぎると疲れすぎて生きづらいのだ。
けれども、適度に豊かな感性が育まれていないと、本当の幸せには到達できないと感じる。
モノがあっても感じる能力がなければ幸せになることはできない。


現在の自分から過去の彼へのコメント

お疲れ様です。
ゆっくりと傷口の治癒に努めてください。
あなたの望んだ生活は今、実現しています。
そして、精神が飛躍的に発達しましたし、よくも悪くもタフで鈍感になっています。
精神の健康な仲間に囲まれてノンストレスで生きております。



続いて、当時から一年後の今から4年前の日記を見てみよう。


幸せをつくりあげていくための目標設定

2008/8/27の日記

自分の身近な人10人ぐらいを少しでもより幸せにしてあげることを目標にしようと思う。両親、私、友人、将来いてくれたらうれしい妻と子ども
いくらお金があっても体は1つだし時間は平等。だからテレビを100コ同時に見ることはできない。

考えてみれば日本は聖徳太子以前から中国の文化をパクリまくってきた。今ちょっとパクられたくらいで細かいこと言うなと思ったり。欧米は「個人」にこだわりすぎて所有とか著作権とか裁判とかうるさすぎるところがある。

太陽の下における平等

コメント

身近なところから幸せのカタマリを作っていくというスタンスは継続しておりますし、
一定の成果も出てきております。その他にも、様々な夢や目標が着実に叶っております。
最近では、たいていの夢や目標は「適切な努力をすれば」叶うものだと実感しております。

本当の美容について・調心は大人のマナー

2008/8/28の日記

本当の知恵とか教養というものは骨や内臓のように体のオクに静かに、しかし、しっかりと機能を果たしながらおさまっているものだと思う。内臓をひけらかす人はいない(きっと)。書いていて思ったのだけれど、外皮系や骨格、筋肉など、わかりやすい美容にばかりこだわるのではなく、内臓や神経系の美容をもう少しがんばるフンイキになるといいのだと思う。美しくなろうとすることはきっとすばらしい。私は今、こういうのを重視して心身の美容に励んでいる。美しくなりたいという思いは多くの女性(や男性)と同じ。全体を美しく。これがきっと大切。容姿か中身かとかは本質的ではない。この二つは本来「1つ」である。分ける必要はない。

人心が乱れている。自分の人生を咀嚼し、一応の満足をすることは大人の勤め(義務)である。それにより、周りに幸せが伝搬する。
私はそう思うから、そういう方向に自らを導く。

家庭の民主化

人は老いる。私の親も、友人も。私も。

コメント

美容とはそういうものだと思います。
ぼくは美しくなりたいし、他者を美しくしたいし、美しい人に巡りあいたいし。
そして、心を整えること=調心は大人のマナーだと思っています。

2008/9/5の日記

私はものを知らないから、悲鳴はあげられても不満は言えない。

怒りではなく慈悲を原動力に動くということもできる。

コメント

ええ、怒っている状態というのは、不幸だと思います。

正直であることのメリットと理想的生活実現の誓い

2008/9/6の日記

原則、ぼくは正直でありたい。

鋼鉄の意志と緻密な戦略・計画性、地道な努力により、絶対に私のしたい生活を実現させようと思う。

コメント

今も正直でありたいと思っております。
まず、一人ひとりの人を尊重し、誠実に生きたいという倫理的な動機。
そして、様々な他者との誠実なコミュニケーションを通して信頼関係を築くことにより、
効率的な共同体運営につなげたいという動機があります。
その他には、以下の理由が挙げられます。
嘘をついてしまって、仮にそれがバレてしまった場合、自身の信用を落とし、結果、生存上不利に働くことになってしまいます。
だから、嘘をついてしまった場合には、嘘を逐一記憶しておき、さらに、つじつま合わせをし続けるために、脳のメモリを常時余計に使用する必要が生じます。パソコンでいう「重たい」状態になってしまうのです。ぼくは自身の脳のパフォーマンスを最大化して、のびのびと思考をしたいので嘘はきらいです。
嘘をつかないための根本的な対策としては、嘘をつかなくてもよい生活をすることが一番でしょう。
ぼくは、現在、とりたててやましいことはなにひとつありませんから、気楽なものです。つまり幸せですし、余計なことに脳のメモリを割く必要がありませんから、のびのびと生きることができます。

鋼鉄の〜について。
よい意気込みです。今もその思いは変わりません。あなたのしたい生活は着実に実現しつつあります。
夢や目標はたいてい叶います。ただし、自分を客観視する能力は不可欠です。

再び日記の効用について

2008/9/7の日記

おそらくもっとも私の心のバランスがよいときの判断を長期的方針として採用するのが好ましい。それだけ状態が変わるのならそうするのがよさそう。
たとえどんな社会になろうとどういう人が多数派を占めようとも、ガンとして動かないフワフワのきれいでやわらかい心の大きなしかも枯れない瑞々しい花でありたいしそうなれるよう努めたい。短い人生 くいなきよう 本当にくいなきよう


ぼくはしばしば障害者と呼ばれる人たちと関わる機会があるし、また、話を聴く機会もあるのだけれど、そういう触れ合いがある度に強くなる思いがあって、それは人間のより高次なコミュニティのあり方があるように思えてならないということ。たとえその背後にたくさんの苦しみや悲しみがあったとしても、それでも、固定観念や習慣から簡単に逸脱することのできる個性というのは素晴らしいといつも感動するし、目を開かされることが多い。

長老=生き方のコンサル


実はもう遺跡はでている
眼前に広がっているという想像力

常々、日記をつけていると、「もっとも私の心のバランスがよいときの判断」が何なのかが浮き彫りになってくる。
これも日記の効用の一つである。

コメント

ええ、くいなきよう生きていきましょう!



それでは、上の頃から一年後の、今から約3年前の日記を見てみよう。

意識に占める過去現在未来のバランスについて

2009/7/5(日)(8:35)デパス*6。内臓キモチ悪い。最近すぐに寝られない。が、起きるのは早いし、途中で目覚める。なんか嫌な夢見てるような。うまく生きるためには、過去現在未来をバランスよくしかも柔軟にいろんな尺度で適切な物語性をともなって見られる必要があると思ったり。3つのうちのどれかが欠けるとペースがくるう。PTSD(トラウマ)は意識と感情をカコの一点にしばりつけてくるし、不安や快楽などにかたよった状態からくる刹那主義や快楽主義の場合、現在にしばりつけられてしまい、いずれにおいても適応的に生きられなくなりがちだし。未来ばかり見ていて過去や現在を直視できていない場合にはただの口だけの夢想家になってしまったり暴走してしまったりする。過去現在未来のどれか二つだけを見ている場合にも、またうまくいかないことが多い。今日は(この部分解読不能)。着実に。
きのう見た虐待された子のドキュメントはそのキモチやあり様がイタイほどよくわかるけれども、それを「なぜ」そうなるのか「説明」するのは今の僕にはもうむずかしいし する気もない。今はそういうアタマの使い方をしたくない。

今はわりとうまくいっているから起きてから早く動き出せるというのはありそう。

14:20デパス 20:00デパス、ジェイ*7
23:00デパス


この時から、約3年が経った。



当時は過去の一点に縛られていた。その過去の一点への吸引力は凄まじいものだった。
そこに精神の自由はなかった。つまり不幸だった。けれども多くの学びは得られた。
今は当時と比較すれば極めて健康であり、かつ、幸せである。

このように、自分の意識が向かう方向を静かにモニタリングすることはうまく生きていくためにしんけん*8重要である。

ぼくは最近、毎日朝から夕方まで農作業をして

その後、時間があるときには、暗くなるまで志民農園の手入れをして

夜には、家庭教師の仕事をしたり、書道教室に通ったり、中国語講座に通ったり

帰宅後、お風呂とご飯を済ませ、布団に倒れこみ数秒で寝付く。

早朝、本を読みあさることしばしば。

毎日が充実していて、かつ、中長期目標に従い着実に前進できている。

気がする。

一般に、中長期計画というのは、常に意識していると脳のメモリがもったいないので、
日々の活動指針や活動内容をその中長期計画から導き出し、適度にルーチン化しておくとよいと思われるのだが
ある頻度以上で、どこに向かっているのか確認する作業をしておかないと、現在に囚われすぎてしまって、過去と未来を見ることができなくなりがちである。つまり、視野が狭くなる。そして、手段の目的化というやつが起こる。

結果、モチベーションの低下やペースの上げすぎ等を招き、心身のバランスを崩し、幸せから遠ざかることがあるから注意が必要だ。

ぼくは最近、この傾向に陥りがちであったので、現在、周辺環境整備に努めている。例えば、優先順位の低い中国語講座をやめることを決意したり、仕事等においても無理をしすぎず適度に休みをとったり、今まで二日間で三人の生徒をみていたのを、一日にまとめたりすることにより、夜に空白の時間をつくる工夫をしている。

ぼくにとって、やりたくてやっていることをやめるというのは、やりたいことをし始める、あるいは、やっていることを継続すること以上に難しいことなのだが、これができるようになったのは大いなる進歩だと思う。




そして、最後に数ヶ月前の日記を見てみよう。


たいていの事故や怪我の前にはそれを予見する本当にささいな異変が見られる・本当の反省の再稼働を

2012年3月の日記

書きかけでふと気づけば、就農計画を立てていたはずが、いつの間にか関係のなさそうな本に囲まれている。

早期発見ができるし、だいぶんマシになってきている。

けれども、プラトンを参照して就農計画を立てていたのでは、十中八九、就農する前に死んでしまう。

さかのぼりすぎてしまう癖があるんだ。

それは長所でもあると思っているのだけれど、重大な欠点が少なくとも二つはあって

ひとつは、そんなことをしていると儲からない=死に接近するということであり

もうひとつは、日常生活に支障をきたす=これまた死に接近するということ。

そして、個人に特有の事情として、脳に負荷をかけ過ぎると、閉じかけていた傷が再び開き、頭のうずきがひどくなるという欠点もある。

これは典型的な「内」ばかり見ているモードに陥ってしまっているときの傾向で

毎日身体を十分に動かしてバランスよく生きられていないときによくこうなる。

ここ二三年、限りなく無職に近い自営業者になってしまう冬には、特にそうなりやすい。

他にも、最近は常にうわの空だし、昨晩は会話や考え事に夢中になって駐車場の閉鎖時刻に間に合わなかったり、今日はインロックをしてしまったり、プールでも考え事をしながら半ば無意識にひたすら歩き続けていたし。


上でも述べたように、重大な過失を回避するためには、こういう「リーチ目」を軽視しないほうがよい。


たいていの重大な事故や怪我の前には見逃してしまうほど小さいが、実は超重要なサインが出ている。


経験は私にそう語りかける。



よく小学生や政治家などが反省する際に、「気をつけます」とか「注意します」とか書いたり言ったりするけれど

実はそんなのは意味のある反省にはなっていなくて

ただ意志でなんとかしようとしているだけ(あるいはその意志すらない)でたいした予防法にはならないんだ。

強い意志を持つだけで予防できるような事柄など、もともとたいして深刻でない事態なのである。

有効な反省の方法としては、なぜそうなったのか掘り下げた上で、具体的に何をするのかを決め、行動に移す。
そして、そのサインが出ないよう、あるいは、出た時にこの「本当にささいなサイン」を重大な過失が起こりうる前触れだと認識(これが本当に難しいのだけれど)し、素早く修正をすること。これができるようになったころには、すでに反省前の自分とは全く別の存在になることができている。深い反省とは自分が根本的に変わることである。変わるのは楽ではない。けれども、変われた暁には、自分の周りの人々をより幸せにすることができる。



反省とは本来学びの最たるものである。


しかし、残念ながら、少なくとも現在の日本においては、反省というものは過失の咎めに対する弁明や謝罪というレベルに留まってしまっている。

「本当の」反省をするためには、これを一つの技術として捉え、適切で継続的な訓練を積み重ねる必要があるのだが、おそらく、ほとんどその訓練がなされていない。

だからぼくは自身の「政治生命」をかけて、他者が反省する際の「安全性」を担保したいし、本当の反省を「再稼働」させ、「国民生活」を守りたい。

そうしないと、「日本の中長期的な経済的・知的・文化的損失」が計り知れないので。

*1:基本的には殴り書きで、もちろん推敲はしませんし、本来、平仮名やカタカナで記述しないような語句もそれらになっていることがよくあります。人にはあまり見られたくないようなことも普通に記述します。そうしているうちに、やがて、他人に見られてもいいかなという心地になりますし、心の平安を保った状態で、言おうと思えば何でも言えるような人物になってきます。

*2:「ブログに限らず書くということ全般について」ブログ情報 - 岡安賢治随想録(okayasukenji’s essay)の二番目の理由を参照

*3:過去の自分

*4:ブログに限らず書くということ全般についてブログ情報 - 岡安賢治随想録(okayasukenji’s essay)の一番目の理由をご参照ください

*5:11年前に亡くなった妹

*6:服用している薬の商品名

*7:ジェイゾロフトの略。服用している薬の商品名。

*8:舞鶴でしばしば使われる方言で、「とても」のように程度の甚だしいことを意味する言葉。