前衛に駄作が多い理由

先日ある書展に行った。学生の作品と、書家の書いた金文、篆書や隷書、草書、行書、楷書、かな*1などの伝統的作品と、前衛的な作品を対比させて展示した企画展である。

(作品が掲載されているサイトが見つからなかったため、以下の文章の大半は読んでいて退屈だと思われます。ごめんなさい。)

初めに学生の作品を見た後、書家の伝統的作品を見ると、前者に「つまっている」感があるのが一目瞭然であった。流れていないし、リズムやバランスが悪かったり。カラフルな作品もあったが、節操が無く下品に見えた。静謐で微妙な色合いの黒と白の世界で静かにリズムや流れに寄り添いたいのに、気を散される感じ。安易に装飾的な方向へ走ると失敗する*2

対して、書家の伝統的作品は、例えば、金文は、動いている生々しい動物をピン止めしたようで、流れていないが「生きていた」。草書は「踊っていた(舞踏性)」。「風好」の二文字が横書きで大書された作品では、力強いリズムを持つ二文字の間に、法隆寺の阿形と吽形の間に存在する「間」のような一瞬の時間の(呼吸の)静止に伴う静の間があり、そのコントラストが心地よく。見上げる程の高さの画仙紙の漢詩作品は「文字の滝」のように映った。かな作品は丸みがあって、さらさらやさしくやわらかく。

次いで、文字には見えないようないわゆる前衛的な作品を観たのだが、装飾的でごまかしている感がないでもない。今回私にとって魅力的な作品はなかったのだが、そんなものだと思う。だからこそ、いいものに出会えたときの喜びも大きい。考えてみれば、書に限らず前衛に駄作が多いのは当たり前のことだろう。楷書や行書は、無数の駄作を含む作品群の中で、長年に渡って淘汰圧にさらされ、洗練され続けてきた結果、今に至ったものである。それらのフォームが美しいのは当たり前だろう。いつの時代においても前衛のほとんどは駄作だったのであろう。創造の現場においてそう簡単に普遍的な作品や時代性をしっかり捉えた作品は生まれない。いつの時代もそうだろう。駄作が多くてもいいし、自分が駄作を創ってもいい。とにかく多くの人がチャレンジし、試行錯誤することが、豊かな創造物を生み出す風土の醸成のためにはまず大切だろう*3。一方で、伝統から学び、引継ぎ、あるいは改良することもまた大切だろう。



追記(決意と自戒)

今回、楷書の作品はあまり見られなかったが、楷書はある面では、ごまかしのきかないジャンルだと思う。おそらく直線の美しさは万人にとってわかりやすい。縦線一本引くだけで実力はわかる。よって、縦線の未熟を横線や他の偏や旁などでごまかすようなこざかしい真似はするべきではない。縦線一本でも作品として成立するクオリティーのものを作れるような心身のありようと技術を兼ね備えたい。私の基本的方針は決まっている。時代を見つめ*4人間を押す。成熟と共に、器に伴ったものが自然に出来るだろう。そして、そういう作品は普遍性、あるいは時代性を帯びたものである可能性が高い。奇をてらう必要は全く無い。


先月、10年以上ぶりに書道を始めた。小中高と習っていた近所の先生が所属しておられた日本習字さんに再びお世話になることにした。ひとまずわかりやすい目標として、誰にでも指導できる免許*5を取ろうと思っている。将来、相応しい状態になれたあかつきには、書道教室を開きたいと思っている。下の作品は最近私が書いたものである。まだ運筆が安定していないし、リキミもあるし、視野は狭いし、姿勢もきまっていない。だから文字もつまりまくりである。前田@広島カープがホームランを打ったにも拘らず「つまりました」とコメントするのとは次元の違うつまり具合である。こんな現状だが、毎日の練習と分析により、日々進歩しているし、一ヶ月前に比べればずいぶんうまくなった。一年後に同じ字を書いて比べてみたい。止まったなと思っていやになりかけたときにもう一押しすると、一気に伸びることがよくある。表情や母国語での発話のごとく筆で自然に心身の有り様を表現できるようになるまでひたすら技術を磨こうと思っている。そうなってはじめて何がしかを生み出せる可能性が出てくるのだろう。簡単なことではないから、一生かけて取り組むつもりである。

それにしても、作り手目線が加わると、鑑賞の楽しみが爆発的に増加するからありがたい。いみじくも西田幾多郎*6先生がおっしゃったように、書は「自由なる生命のリズムの発現」であり、「芸術家自身の人格の発現」である。書は止まっているが、そこには時間が流れている。墨色の深みやバランスを目で味わうこともできるし、刻印されたリズムを目を通して身体で味わうこともできる。

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*1:これらの字体と起源についてはwikipediaを御参照ください。

*2:辛口でごめんなさい。皆さん私より上手です。

*3:ただ、お世辞で褒めあうような風土は本気で創造したいのであれば好ましくないだろう。

*4:今を知るためには過去を知る必要があるし、ここを知るためにはあちらを知る必要があるでしょうし、これを知るためにはあれを知る必要があるでしょう。

*5:六段位というのを、わかりやすい目標として設定しています。私の場合、本当の目的は心身の陶冶にあるのですが。

*6:西田幾多郎随筆集』岩波文庫