自由と束縛の狭間で

自由は主体性と逸脱を生みやすく、これらは独創的創造として昇華される。

他方、束縛*1は計画性や義務により駆動される人間を生みやすい。

計画的であるほうが、その時点において生産が意図された事物に関する生産性は高くなる場合が多いだろう*2。裏を返せば、その計画がなされた時点で予測可能だったことやわかっていたことが、ある時間の経過の後に実現されるだけである。計画性は重要であり、また、短期的に見れば効率的だが、そこには逸脱の余地が無く、従って飛躍がない。

自由すぎると集団生活が成立しないだろうし、束縛がきつすぎると創造性が開花しない。極端すぎるとおそらく文明は衰退する。個体レベルではいろんなヤツがいる方が面白いけれど、集団のレベルではきっと、さじ加減が大切だろう。

(義務)教育や大学、社会の有り様を議論するにあたって、まずはこれらのことを踏まえたい。

ちなみに、自由は逸脱しすぎたいわゆる廃人を生みやすく、束縛はいわゆる面白くない人を生みやすいということもお忘れなく。

私は、義務教育時代は後者の傾向があり、今はおそらく前者な気がします。

合掌

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*1:ここで言う束縛とは、自身の身体や環境条件といった、物理法則による制約のことではなく、主に人間の頭で生み出された義務や規則のことを意味しています。身体や環境の制約は発明の強力な駆動力になるでしょう。

*2:義務のみが行動の動機になってしまった個体が増加した場合、意図された以上の知的、物質的生産はなされないだろうし、意図された生産すらなされないこともありうるだろう。従って、これは一概には言えないと思われる。