感情と認識を適切に導くためのメディアリテラシー

生きていくにあたって、自分の認識の仕方しだいで回避できる無用なストレスは避けたいし、できれば気分よく毎日を送りたいものです。私の場合、イライラしている状態や悲観的な状態よりは、リラックスしている状態の方が、様々な問題や課題に対して、合理的な判断が下せることが多いと経験的に思います。

 みなさまの場合はどうですか。

 ここでは、「認識の仕方しだいで回避できる無用なストレス」のひとつである、新聞やテレビなどのマスメディアから受けるストレスの対処法、つまり、感情と認識を適切に導くためのメディアリテラシーについて考えてみることにします。



 少なくとも日本においては、現在マスメディアを通して流されているニュースというものは、大雑把に言えば、世界において日々起こっている無数の出来事の中から、日本人に関係の深い不幸なトピックや神経を逆撫でしてしまうようなトピックを半分以上、注目に値する幸福なトピックを少しだけという内訳で、数十億分の数十程度のトピックを抽出した凝縮物だと思う。ニュースの性格上そうなるのは当然のことだろう。多数の日本人に伝えるに値しない圧倒的多数の公共性のないささいなことや、多数の人々の関心を惹かないこと、情報発信サイドが多数の人々に伝えたくないことはニュースになりにくいのである。逆に、多くの人が知り、考慮すべきとみなされる公共性の高い大きな出来事や、人々の関心を惹きやすいインパクトの大きな出来事、有名人に関する情報、情報発信サイドの伝えたいことなどは、広告やニュース、番組になりやすい。

 従って、マスメディアに接する際には、もちろん個々のトピックに対して適度に感情移入をしたり考えを巡らせたりすることは大切だとしても、もし自身の感情や思考内容が極端な「メディア仕様」に陥ってしまうことを予防したいのであれば、コンテンツやそれに伴って生じる自身の感情を適切な濃度に希釈して受け止める必要があるだろうし、どういう性格のものが凝縮されやすいのかを意識しておくことも重要だろう。何かを見聞きするということは、その時点でその内容に自身の人生の一部が囚われている時間が生じているということである。「自分が現在(あるいは最近、あるいは過去に)何を意識して(してしまって)いるのか(いたのか)・どういう種類の情報に多く接している(いた)のか」ということに自覚的になることが、うまく情報と接しながら生きていくためには重要だろう。

 私は過去にしばしば、ニュースを見ていてとても陰鬱な気分になることがあったのだけれど、このことを意識するようになってからというもの、少なくとも今の日本の世の中は、以前に自分が感じてしまっていたほど不幸であったり理不尽なものではないと思えるようになった。日本の世の中はささやかな幸せや苦労を重ねながら平穏に生きている大多数の人々から成り立っているのだと周囲の人を見ていても思う。

 さらに、ニュースというものは、これもその性格上仕方がないのだろうが、同じ内容を何度も繰り返すことが多いので、長時間テレビなどのメディアに接しすぎた場合、より世の中が不幸なものであるという錯覚に陥ってしまう傾向が強くなり、悲観的なビジョンを抱きがちである。だから、長時間見てしまった場合には、一層、内容から受ける印象や感情を希釈して受け止める必要がある。上述したように、何かを見聞きするということは、その時点でその内容に自身の人生の一部が囚われている時間が生じているということだからである。

 さらに憂慮すべきこととして、凶悪犯罪や暴力シーンなどの刺激の強いコンテンツや大音量に触れすぎると、しだいに強い刺激に慣れてきて感性や感情が鈍くなってしまいがちだということが挙げられる。景観や絵画、文学、建造物などを比較した時、現代の多く(一部かもしれないが)の日本人(あるいは人間)の感性は江戸時代以前の人々に比べ急激に鈍くなってしまったように思われる。その原因のひとつにはおそらく、ある種のテレビ番組やテレビゲーム、映画などの刺激の強いコンテンツに触れすぎていることがあるだろうと経験的に私は思う。鈍くなった個体はさらに刺激の強い物を生み出す。刺激の強い物に囲まれた環境で生活する個体はさらに鈍くなる。こうして鈍くなる方向にポジティブフィードバックがかかってしまっているのが今の(特に都会の)状況なのかもしれない。鈍くなるとどういうメリット・デメリットがあるのか。逆に繊細だとどういうメリット・デメリットがあるのか。難しいけれど、例えば、繊細である場合には、多くの(自然)美を丁寧に味わいながら生きることができ、それに伴い自然に節度をもった生活が営めるようになると経験的に思うし、人の機微を細かく感じることができるから、人当たりも柔らかくなって、うまく生きられるメリットもあると思う。そのことが持続的な人間の生存にとって不可欠な要素の一つであるということはありうる。

 さらに、広告やニュースに限らず、情報に接する際、私が意識していることとして、次のような例が挙げられる。

 AとBという二つの選択肢があるとき、もし「私」が人々の目をBからそらしたいのならば、AをA'とA''・・・の二つ(以上)の要素に分解して見せかけの対立構造を作り、Bを決して語らず、A'かA''かを人々が「自由に」選択できるという状況を用意し、派手なパフォーマンスをするだろう。あるいは、(多くの)他者をAで染め上げたいのなら、まず、Aに賛同しない者を明確にするために、「AかAでないか」という二分法的思考フレームを強調し、Aでないもののなかに含まれる様々な要素B,C,D・・・やAそのものではないがAを部分的に含む様々な要素G,H,I・・・などの選択肢を「Aでないもの」という大文字で粗く一括りにした上で、わあわあ騒ぎ、世界を二色に塗り分けようとするかもしれない。声が大きいとき、饒舌なときというのは、不健康な社会に近づく兆しである場合もあろう。

 もし「私」が保険や医薬品や武器などといったサービスや商品を手段を選ばずたくさん売りたいのならば、いかにそれらを所有していないことがリスキーなのかを示すキャンペーンをはり、不安をあおってみるかもしれない。「もし〜だったら」を何でもかんでも同じ重みで考え出すときりがないのである。無数にあるリスクに対し適切な重みづけをした上で適切に対処する(有限の時間や労力、お金や注意をうまく配分する)ことが、うまく生きていくためにはきっと重要だろう。もっとも、その重みづけをすることはとても難しい問題だし、わからない中で各組織や各人が試行錯誤しながら生きていくものだと思う。

 もし「私」がAとBの関係を悪化させたいのであれば、AがBを(BがAを)侮辱したり虐待しているシーンを探して報道(報告)したり、そういうシーンを演出することにより、怒りをあおってみるかもしれない。穏健な多数の人々は目立たず、過激なごく一部の人が目立つのである。マスメディアに映るのはごく一部であるが、しばしば、そのごく一部を増幅してさも全て(あるいは多く)であるかのように受け止めてしまいがちである。「今日、関東地方では地震が起こりませんでした」「青森県在住の○○さんは犯罪を犯しませんでした」というニュースは報道されないだろう。当然かもしれないが、「何も起こっていない状態」については報じられないのである。

 上記の例における「私」のような何かを企む主体の存在の有無に関わらず、結果として人々の多くが、メディアが提供する広告や番組、ニュースに潜む上のような罠にはまってしまうこともあるのだろう。



 私はしばしば上のような罠にはまってしまいます。自分の感情の動きとその起源に対して自覚的でありたいし、案件をフレーム化し再構築できる柔軟性をもっていたいものです。