「なぜ生きるのか・なぜ人を殺してはいけないのか」という問いに対する一つの解答


 この文章は、生き悩んでいる人が危機から脱するためのささやかなる助けになることを願って書かれたものです*1。ですから、今元気に生きている人にとっては直接的には役に立たないかもしれませんが、将来役に立つことがあるかもしれませんし、みなさまの周りの方々のためになることもあるのかもしれません。もちろん役に立たないこともあると思います。


1.本題の前に―生きるにあたっての「心身のバランス」の重要性について

 様々な他者や環境とうまく折り合いをつけながら生きていくためには、感情や理性、交感・副交感神経など心身の諸機能のバランスがとれていることが重要なのだと経験的に思う。このことは、自身の脳や身体のあり様の変化をモニタしてきた結果*2、明確な実感としてつかんでいるのである。ここでは、これら諸機能のバランスのことを大雑把に「心身のバランス」という言葉で表現することにする。

 心身が適切な範囲内でバランスされているとき、私*3は自然に「生きようとする」ようである。逆に、心身のバランスが著しく崩れている時にはしばしば、下に示すような危険な状態に陥るようである。健康な人にとっては当然のことながら、私は基本的な立ち位置として、前者の心身のバランスのとれた状態(自然に生きようとする状態)が好ましいと考えており、従って、このバランスされた状態から逸脱しすぎないための知恵を持って生きることが大切だと思っている。この前提を中心に据えた上で、以下の問いを考える。

 なお、以下の議論は、科学的アプローチによるものではなく、主に私の実体験から*4得た教訓です。


2.「なぜ生きるのか」という問い方自身に内在する生命にとっての罠

生きているとたまに次のような問いが浮かぶことがあるかもしれない。

「なぜ生きるのか。」「なぜ生きたいのか。」「なぜ生きねばならぬのか。」「なぜ人を殺してはいけないのか。」*5

 ここでは、これらの難問に対する私の実体験から得た現時点における一つの解答を示そうと思う。

 いきなり結論を述べると、この問いを「論理的態度」でまともに相手するのではなく、「私の体(心)に今この問いが生じている」というさらに高次の認知を働かせ、問いを心身の状態を表すサインとして捉えることが、うまく生きるための好ましい態度であるということである*6。つまり、この「なぜ」生きるのかという「問い方自体」が、心身のバランスを崩すひとつの「罠」である。と経験的に私は思うのである。

この問いに向かい合うことをきっかけに心身のバランスを崩してしまうこともあれば、そもそも心身のバランスが崩れているからこそ、私の*7意識上にこの問いが生じてしまうこともある。

以下では、後者の心身のバランスが崩れている場合にこれらの問いに向かい合う危険性について述べる。

 心身のバランスが崩れている時には、上記の問いが生じやすい。その際、問いに対してまともに向き合うと(つまり、さらに理性を用いて考えると)しばしば悪循環に陥り、生存にとっての危険な結末―自殺や殺人や反社会的行動―に接近してしまいかねないと経験的に思う。 従って、繰り返すが「なぜ生きるのか・生きたいのか・生きねばならぬのか」などという問いが自身に生じた際には、それを自身の心身のバランスが崩れていることを知らせる「サイン」として捉え*8、問い自体にはまともに向かい合わないことが、うまく生きていくためには好ましい態度なのだと思う。

 といっても渦中にいるときにはそれが極めて難しいのだが、予備知識としてこのことを知っておくことにより、少しはこれらの問いを「フレーム化」しやすくなるかもしれない。つまり、罠に気づきやすくなれるかもしれない。そして、これらの問いが生じた際には、自身の最近の生活を客観視し、また、身体の声を丁寧に聴くことにより、心身のバランスがどのように崩れているのかを認識することに尽力した上で、心身の有り様を変える*9、もしくは行動パターンを変えればよい。 
 

3.心身のバランスが崩れる具体例と対処法

 ここで、どういう生活をしている時に心身のバランスが崩れやすいのか、いくつかの例を示し、行動パターンを変える具体的方法の一例を示しておこう。

 例えば、情動や感情が凝り固まっていたり抑圧されている状態が続くと*10、理性(論理性)の檻に閉じ込められたような心身のあり様*11になってしまい、「なぜ」という形の問いが過度に発生することがある。
 
 あるいは、論理的思考に偏りすぎたり、論理性由来の「なぜ」*12を問い続けるという偏りすぎた生活を続けていると、時に心身のバランスを崩すことがある。

 上記二例のような時には、論理的思考に偏りすぎることなく、音楽を聴いたり演奏したり歌ったり、小説や映画を味わったりあるいは作ったり、運動をしたり、様々な自分と異なるコミュニティーに属している人とコミュニケーションをとったりして、バランスよく心身を耕すことが、平凡だが、うまく生きるためには大切である*13

 また、過度のストレス下で長期間生きているときや、生きるペースが速すぎるときにも、感情が強ばってしまって理性の檻に閉じ込められてしまうパターンにしばしば陥る。 その場合には、「逃げる」あるいは「ペースを落とす」ことを検討すればいい。
 
 あるいは、閉鎖的なコミュニティーに属していて人間関係が硬直していたり、愛情が枯渇していたりすることにより、心身のバランスが崩れる場合がある。この場合には、例えば、他の文脈の人間関係の構築などを検討すればいい。

 実際は、これらやこれら以外の状況の内のいくつかが同時に訪れた場合に対応が困難になる場合が多いと*14思う*15。できるだけ対応が困難な状況を避けるために、自分の今の安定がどういう要素により成り立っているのかを可能な限り分析しておくことが重要である。

 めでたしめでたし。

 と言いたいところだが、ここで一つ問題がある。

 たしかに、予防の場合には上記のような事柄を先手を打って実行していればよいだろう。しかし、渦中に陥っている(「なぜ生きるのか」などの問いが生じている)ときには、行動パターンを変えればいいといっても、状況を改善するための適切な手段を検討すること自体が困難な精神状況である場合が多いのである。だから、「外部(他者)性」が重要である。つまり、「運」が重要である*16。例えば、たまたま雪が降って心がやわらかくなるとか、期せずして疎遠にしていた友人から連絡があって、話しているうちに温かいものが内から湧いてくるというようなことである。このことから、例えば、たまには疎遠にしている友人にメールでもしてみることが思わぬ人助けになることもあるという平凡にして重要な、私にとっては耳の痛い帰結が得られる。

 
 

4.生きるということを中心に据える(心身のバランスを整えることを重要視した)仏陀*17の思想

 
 生きるということが「どういうことなのか」を客観的・科学的に解明することは非常に興味深いことである。一方で、もし生き延びることを最重視するのであれば、心身のバランスの崩れた状態に陥っている際に、「なぜ生きるのか」について深入りすることや、その問いをきっかけに心身のバランスを崩すことに私は肯定的ではないし、あえてその質問に答えて説明することが必要だとは思わない*18仏陀の「無記」ということの効用の一つにはこういうことが含まれているのではなかろうかと、今のところ考えている。

「生きるということを中心に据える」という仏陀の根本にある立ち位置に対して、私は現時点においては全面的に賛成する。進化論における「適者生存」のような同語反復的語り口になってしまうが、少なくともこれまでにおいて人間という種が生き延びるのに有利であった(あるいは邪魔でなかった)ものが現に今生き残っているということは当然のことだろう。「心身のあり様を最適化する(心身のバランスを整える・心の陶冶)こと」や、「様々な生き物に対して慈悲の心を持つこと」などに代表される仏陀の思想は、個人の生存はもちろんのこと、それのみに囚われることなく、人間という種の生存、さらには生態系全体の生存を重要視する。このことが人間という種の生存にとって有利だったからこそ、仏陀の思想は二千年以上に渡って人間社会において生き延びてきたのだと私は推測する。
 だからといって、今後どうなっていくのかはわからない。今まで適応的であったからといって今後それが生存に有利(あるいは生存の邪魔をしないよう)に作用するかどうかはわからない。けれども、今のところ私は今後もこの思想は人間の生存にとって重要な役割を果たすと考えている。全員がこのような思想を持つことが好ましいとは限らないが、人間の種としての生存確率を高めるためには、必ずしも仏教徒でなくともよいが、このような思想を持つ個体がある割合で必要なのかもしれない。
 その理由として、まず第一に、人間の物理的な身体の構造と機能はこの数千年ほとんど変化していないらしいということが挙げられる。他に考えるべき事項として、環境の変化が挙げられる。例えば、機械、インターネット、人口、人間集団のネットワーク構造、蓄積された知識の質および量の変化などがあるだろう。このあたりについては、まだほとんど考えていないし、また難しい問題だろうから、ぼちぼち向かい合おうと思っている。

*1:書いた後改めて考えてみると、落とし穴に落ちた場合にはまた別の助け方のほうが有効だと思われます。もしこの文章に効果があるとすれば、落とし穴に落ちている人を救う効果より、知らずに落とし穴に落ちる前に落とし穴の存在を知らせておく「予防」の効果のほうが期待できそうです。できるかぎり落とし穴に落ちるのを予防するためには、どのような状況が整えば人間の精神や身体が壊れるのかをできるだけ知っておく必要があります。もちろん完全に知ることなどできないとしても、知っておいた上で健康に生きるのと、知らないで運よく健康に生きているのとでは、同じようで将来の安全性が全く違うと思うのです。

*2:つまり、内省によるアプローチの結果

*3:おそらく「人間」と一般化しても差し支えないと思われる

*4:内省のアプローチにより

*5:私は「現在」心の中では「人は人を殺してはいけない」という教条主義的命題を支持していませんから、この問いは私にとって問いになりえていません。ですからこの問いは私にとって、「なぜ1+1=5でなければならないのか」と言われていることに等しいのです。つまり、「いや、私はそのようには考えないよ」となるのです。私の場合、「殺してはいけない」からではなく、「殺したくない」から殺さないだけです。つまり、教条主義的人間ではなく主体的人間なのです。そして、本文でも述べたとおり、殺したくないと自然に思えるように環境および心身を導くことが重要だと考えています。ただし、「殺してはいけない」と他者に対し言明することが無意味だとは思いません。「心の中で思う」ということと、「言葉を外に出し他者に伝える(影響を与える)」ということは別のものとして議論する必要があると思います。

*6:禅において、命題に囚われずフレーム化するための知恵が多く存在しているように思われます。例えば「無門関」という公案集における、「南泉、猫を斬る」という公案は、心が痛みますが、「フレーム化」の一例が示されていてとても面白いです。

*7:「人間の」と一般化してよいのかどうかはわからない

*8:窮地に追い込まれた時に生じる場合における、それらの問いの背後には「死にたい」「殺したい」という強い衝動が隠されているのでしょう。従ってまずは、私は「主観的には」窮地に追い込まれていると感じている、ということを認識することが大切でしょう。

*9:「私」を主観的に窮地に追い込んでいる環境要因が特殊(極端に言うと監禁やレイプなど)でないのであれば、できるだけ心身の有り様を変えることにチャレンジするのがよいでしょう。それを「成長」と呼ぶのでしょう。ただし、この方法は生きるということを最重視したうえでの話だと考えています。実際には、環境と心身を程よいさじ加減で両方変えるのがよい場合が多いと思います。

*10:ここはどういう情動、感情なのか今後より精密に掘り下げると面白そうです。例えば、福田正治の進化論的感情仮説で言うところの、基本情動、社会的感情、知的感情などといった神経生理学的、進化論的アプローチに興味を持っています。一度しっかりと生理学を学んでみようと思っています。

*11:ここも、舌足らず、あるいは表現が適切でないと思われます。今後掘り下げる必要があります。内省によるアプローチの難しいところは、現在と当時の心身のあり様が大きく異なる場合にはもう手の打ちようがないということにあります。現在の自分が過去の自分の言っていることを理解できないのです。そこで、もし掘り下げるのなら、経験をヒントにしつつ異なるアプローチをとるということになります。

*12:ここで言う論理性由来の「なぜ」は、例えば身内に突然の不幸があったときに生じる「なんでウチの人がこんな目にあうのよ!」における「なんで」とは異なる。こちらは情動の激しい揺らぎを治め安定を得る過程で生じる「なぜ」である。ここで論理性由来のなぜと呼ばれているものについては、掘り下げ不足と不勉強のため現時点ではこれ以上言及することができません。今後、気が向いた時掘り下げてみようと思っています。

*13:たいていの場合、もっともな主張というものは、いわゆる「ありきたり」や「当たり前」のものだと思う。例えば酸素を吸うことのように、普段は格別意識せずに普通にできていることが、ある状況においては出来なくなりうるから「落とし穴」なのである。

*14:自己および他者を見ていて

*15:ここでは、中年サラリーマンに起こりうる事例を考えてみましょう。この男は妻子がいるし巨額の住宅ローンもあるから簡単には会社をやめれない状況にある。彼の勤めている会社は自転車操業で、彼は日が変わるまで毎日残業、土日も出勤。職場の雰囲気は悪く殺伐としている。派閥が形成され陰口の嵐。皆が仕事に追われ余裕のない状態で怒りっぽく冷たい。彼は難しい資格をすぐに習得しなければ仕事がこなせない状況にあり、帰宅してからも睡眠時間を削って猛勉強をする毎日。ノルマがきつく、部下からは愚痴、上司からは八つ当たりやパワハラの嵐で板ばさみ。静かにストレスが自身を蝕んでいくことに男はまだ気づかない。家庭を犠牲にせざるを得ない状況が続き、家族関係はみるみる悪化していく。やがて離婚を告げられる。一人身になり、家事の負担が急増する。金銭的余裕がないため自分で弁当を作る日々。両親は亡くなっているし兄弟はいない。忙しくて友人に連絡がとれないし、遠くに行ってしまっていて簡単には会えない。喪失感と孤独の中、男は頭と体が急に重たくなり、極端に動きが鈍くなる。あらゆる作業がはかどらないが、それでも必死で貢献しようと男は無理やり頑張る。疲労がピークに達したときに、ささいなことから社員の一人と口論になる。直後に仕事でミスをして事故を起こし、救急車で病院へ運ばれる。極度の肉体と精神の疲弊の中、男の認知は変容し、会社に多大な迷惑をかけたと過度の罪悪感に苛まれる。極限状態の疲労と罪悪感の中、退院直後に上司から密室に呼び出される。「我が社の仕事がうまくいっていないのはすべてお前のせいだ。会社をやめてもらう。お前が会社の雰囲気を悪くしている。お前のせいで自殺しかけたと部下が言っている。お前がやっていることはいじめだ。お前は人殺しだ。そんなことをしているから業績が上がらないんだ。」と、上司自身の人望のなさ、能力・指導力不足を棚に上げ、顔を真っ赤にして机をバンバン叩き大声で怒鳴り散らされ続ける。男が冷静に上司の認識と思考の欠陥を指摘しても、はじめから全く受け入れる気のない上司は、痛いところをつかれた結果、さらに感情的になって怒鳴り散らす。自分のせいで他人が自殺しかけていたということを聞いたショックと罪悪感の中、目の前が真っ暗になり、しだいに話す気力を失う。この時点で、男の心身の状態はすでに意志でコントロールできる範疇をこえ、あとは一直線となる。直後に、追い打ちをかけるかのように別の上司に呼び出され「失望した。」と告げられる。前件について少し触れると「彼はそういう役割だ。」と腫れ物に触るように流される。男の体に、レイプされたような、体を蹂躙されたような無力感が刻まれる。その後、「社会というものは想像していたよりずっと恐ろしい。」と取り付かれたように何度も繰り返しながら、男は数名の部下に事情を説明する。部下らは理解を示してくれるものの、恐怖政治を敷く上司を恐れ消極的態度をとる。さらにその後も上司の八つ当たりは続く。しばらくたった後、部下の自殺云々の件は事実ではないと部下本人から聞く。口論になった社員が上司に虚偽報告し、それを上司が無根拠に信じただけだという可能性が高まる。しかしもう遅い。男の脳はすでに破壊されている。扁桃体に深く刻まれた傷は彼を蝕んでいく。男は自分の中にもう一人の自分の体を動かす存在がいることを知り、取り乱す。そして、そわそわ落ち着きのない状況で、突然ひらめく。止めようのない強制力で名案は男を突き動かす。狂気のなか包丁に手を伸ばし・・・どうですか。なかなかリアルな話ができあがりました。察するに、こういう状況において多くの場合、人間の認知は驚くべき変化を遂げるのだと思います。金縛りのような状態になって、逃げられなくなる場合もあるでしょう。気をつけたいものです。と言っても、「地震の本当の怖さは身をもって体験するまでわからない」ということはきっとあるのだと思います。身をもって知るまでは、どうしても慢心し、高をくくってしまうものだと思います。「自分は(彼らとは)違う」と根拠なき自信を持ってしまい、事態を過小評価してしまうのです。現に私自身、地震対策を十分には講じておりません。

*16:こう言ってしまうと、何の知恵もないじゃないかと思われるかもしれませんが、渦中に陥っている時に悪循環から抜け出すのは本当に至難の業だと思います。だからこそ、そうならないよう、できるだけ先手を打って「予防」に努めることが大切だと考えます。また、悪循環に陥りそうな人には、自身の負担との兼ね合いになりますが、できるだけ速やかに初期症状を察知して手を差し伸べてあげるのがよいでしょう。この文章はその助けになることを願って書かれたものです。

*17:一応断っておきますが、私は仏教徒だと自認しているわけではありません。実家に仏壇はありますが。仏陀は素晴らしい思想家だと思いますし、キリストも親鸞も素晴らしい。科学者であろうが宗教家であろうが、芸術家であろうが、哲学者であろうが、友人であろうが、学べる人からは何でも学ぼうというのが私のスタンスです。

*18:「なぜ生きなければならないのか」などの問いや、様々な形而上学的問題を、最初に結論ありきで、強引にロジックにより導き出そうとしすぎると、しばしば壮大にして滑稽な喜劇が出来上がってしまうことになると思うのです。歴史を振り返るとき、そういう例をしばしば見かけます。現象学的に見ればそれらは非常に興味深い事例ですが、私は、現時点においてその方法を踏襲しようとは思っていません。