敬虔ということに関して 思うことを少し。
信仰心とあきらめるというのは似たようなかんじで
等身大の自分を見つめられているという意味では
とてもすてきだと思ってます。
信心深いひとの美しさってそういうところに由来してるんだと思います。
片想いに対して折り合いをつける際のヒントもこのあたりにあるのだと思います。
親鸞からは生きるためのテクニックの多くを学ぶことができると思います。
苦しみの過程で自分の体内から生み出した知恵は
たいてい過去のひとが見つけているものだと最近思います。
残っているということはつまり普遍的だということでしょうから
当然だと思います。