自分の意見――認知的環境問題

私は

「自分の意見という言葉が嫌いだ」

という「自分の意見」を持っている。

と、

こんな自我が小さくてカチカチの状態で

話を始めようと思います。


もちろんこれは、時代背景を加味したうえでの誇張した言葉です。


日本人は主張が弱いとか無個性だとか

言い過ぎたせいか知りませんが

最近、「主張する」と言うことに価値を置きすぎて

主張することと同じくらいに大切なことを見失っている人が急激に増えた気がします。


みなさんの周りでもそうなっていませんか。


これは、ものを考えずに言葉の表面だけなぞって失敗するいい例だと思います。

主張が弱かったり無個性だととどういうメリット、デメリットがあるのか。

そもそも本当にそうなのか。そうだとして、なぜそうなるに至ったのか。

他の地域ではどうか。改善する必要があるとして、どうすればいいのか。

そこを変えることで他に弊害が出ないのか。

それをどうケアしていくのか。

そのへんをちゃんと考えずに動き続けるとろくなことにならないということがわかって、

またひとつ賢くなれてよかったのかもしれません。

動きながらコツコツケアしていくのがいいでしょう。


この文章も私にとって、ささやかなるケアのひとつです。


少なくとも、私の目から見える景色においては

もはや欧米人やアジア人より

日本人のほうが十分個性的だし主張が強いです。

正確に言うと、主張が強いだけでなく、主張が目的化してしまっている感があります。

そもそもなんのための主張なのか。そこがお留守になっています。

もう一度コミュニケーションというものを見つめなおしたほうがよいと思います。


一部(あるいは多く?)の小学校では、成績評価の際、どの教科にも「積極性」というような項目があるそうです。

ひょっとしたら、義務的にハイハイ言ったり主張することが善だと信じて疑わない気持ち悪いこどもが育ってしまった背景には、

そういうことも関係しているのかもしれません。

たしかに質問があったら、さらっと聞けるくらいの積極性はあってもよいと思いますし、

そういう風土が好ましいと思います。

ですが、控えめで思慮深い人もいるほうがよいでしょう。

「積極的に主張する」ということは、賞賛するほど普遍的な価値観ではないように思います。

ほどほどがいいでしょう。なにごとも、バランスが大切だと思います。

本来、獲得すべきは「主体性」であり、主体性と義務はとても相性が悪いと思います。

主体性はこれから人間が環境と調和してうまく生きていくために欠かせない大切な要素だと思います。

主体性を養うために積極性を成績として評価して、結果、義務的な積極性が養われ、

主体性が消えたとしたら本末転倒でしょう。主体性の涵養のために「褒める」ことは大切だと思いますが、

成績として「評価」してしまうと、うまくいかない気がします。


みなさんはどう思われますか。


主張の強い人にかぎって、「変わらない私」を前提に自分の個性をかわいがろうとします。

たいていのそういう個性はただの修養不足だと思います。

そんなにかわいがるような個性ではないように見えます。

もし、これから人間が環境と調和して生きていきたいのであれば、

そんな個性より普遍を目指すのがいいと思います。

普遍とは認知的な環境との調和です。

つまり、可能なかぎり時間的空間的束縛から逃れ、

「今、ここ」をその中に位置づけるということです。

一過性の集団的な認知のゆらぎに惑わされてはならないでしょう。

思いやりの心が育まれたり、

景色がきれいに見えるというのも一つの認知的調和です。


伝わりましたか。


私はこんなふうに自己中ですから説明不足のまま進めます。


そもそも、現代の日本においてなぜこんなにも主張することや積極性がもてはやされるようになったのでしょうか。


おそらく、今日まで続いている江戸末期からの日本と欧米との文化的摩擦によるものでしょう。

つまり、欧米列強の高い論理性により生み出されたテクノロジーに圧倒された明治以来、

滅ぼされないために取り組むべき日本人の喫緊の課題は、

論理性の獲得であり(もちろんそれだけではない)、

論理性を獲得するためにはおそらく個人主義的な自我形成の必要があるのだと思います。

したがって、江戸以前のコミュニティーにおける認知的依存体質から

欧米型の個々が自律したかたちで手をつないで生きる「個人主義」を取り入れる

必要が生じたのでしょう。

そして、「自分の意見を言わない」ということが、

認知的依存体質における自我のあり様に特有の現象であり、

それが個人主義と比較した際の「わかりやすいシンボル」であったため、

そこにスポットがあたったのでしょう。

ですが、そもそも当時の自我のあり様として、「自分」というものが欧米人ほど明瞭でないでしょうから、

「自分の意見」自体があまり存在していなかった可能性があると思います。

私たちの先祖は必死でがんばったのでしょうが、

日本のあのような敗戦は論理性の欠如によるところが大きいと思いますし、

現在においても欧米人ほどの論理性は獲得できていないのでしょう。

そして、それが国民的コンプレックスとして現在まで残っているのだと思います。

日本が経済大国になったのも、NOと言えないのも、

トラウマによる攻撃性と逃避性によると見ることもできるかもしれませんね。

あまりにもつらい体験をした直後には、なかなか自分を直視できないものです。

最近、第二次大戦のトラウマにしっかりと向かい合う動きが見られてきて

ようやくここまできたかと

うれしく思っています。

しっかりと体験からダシをとりたいものです。

知恵を獲得してはじめて体験に意味が出てくるのでしょう。


もう少し賢くなりたいものです。


それにしても

朝鮮半島の方々や、中国の人たち、

フィリピンなど太平洋諸島の人々や、アフリカの方々の心中はいかほどでしょうか。

察するに余りあると思います。


ちょっとグチりたくなってきました。


だいたいにおいて

人と話をしていて相手の話を掘り下げることなしに

すぐに「自分の意見」を主張する人には自己中な人が多いと思います。

相手が話している最中にかぶせてくる人も多いし、

相手が話しているときに必死で我慢しているのが伝わってくる人もいます。


これは「認知的環境問題」だと思います。


認知というものは環境と調和させるかたちで安定化させるのがよいでしょう*1


これは、より広範な領域において、ストレスを軽減させると言い換えることができます。

これが21世紀の人間の課題のひとつでしょう。

少数の閉じたコミュニティーで安定化させたり、あるいは人工の世界だけで安定化させるのもよくないと思います。

コミュニケーションとは、認知的調和を図るということです。

人とのコミュニケーション、植物とのコミュニケーション、過去の人とのコミュニケーション、

みんなそうです。

例えば京都に住んでいるのなら、いったんできるだけ時間的空間的束縛から逃れた上で、

京都に存在するあらゆるものと認知的調和をはかるのが好ましいでしょう。

土地土地で地形や気候は異なるから、調和の仕方も異なるでしょう。

それを「文化」と呼びます。

物質的、エネルギー的調和だけでなく、認知的にも環境と調和していくのが

21世紀の人間の課題だと思います。

そしてそれらは関係しあっていますから、両方から攻めるのがよいでしょう。


みなさん、攻めませんか。


いやそれにしても

「変わらない私」ということを前提に話を進める人ほどめんどくさい人はいませんね。

自然に分解しないプラスチックのようですね。

環境配慮型じゃない。

「自分の意見」という言葉にはそういう自我のあり様が反映されていますから、

聞いているだけでしんどくなります。

固くて小さい自我は環境における「よどみ」です。

調和するためには、コミュニケーションをとることが必要になります。

けれども、疲れますね。


みなさん、ぼちぼちがんばりましょう。


「主張する」ということは コミュニケーションにおける一要素にすぎません。

「聴く」

これは自我がやわらかくて大きくないとできないことです。

時には、相手の話を数時間聴き続け、掘り下げ続けるようなコミュニケーションも必要でしょう。

そうすることによって育まれる信頼関係もあると思います。

聴くということは、相手に対する誠実さの現れです。

これ以外にも、言語によるコミュニケーションにはいろんな要素があります。

さらには、表情や絵画、音楽、彫刻などの非言語コミュニケーションもあります。

とても興味深いですが、このあたりを話し出すときりがないので、やめておきます。


そろそろ疲れました。


論理性の獲得に真剣になるのもいいですが

私たちのご先祖様が自然と調和しながら培ってくださった日本の文化

つまり、関係性を感じ取るということや、一瞬から長い時間を感じ取るというスキルを

失わないようにしたいものです。

これらが、これからの人間が環境と調和して生きていくために欠かせないスキルだと思います。

欧米の方々にも、ぜひ身につけていただきたいと思っています。

相手の目を見ることにとらわれすぎてはダメでしょう。

視野を広く持ちたいものです。

このあたり、「ストレスに対する対応と自我形成」という観点から分析すると面白いですが、

もう本当に疲れましたから、また今度にしておきます。


以上

「自分の意見」を申し上げてみました。

「自分の」というのが消え去って、

「認識の一点」になれているときの心地よさが大好きです。

最近、「どうふるまうか」ということの判断基準を

「認知的・物質的環境との調和」ということに求めています。

これが現時点における私の「倫理」です。

これからどう変化していくのかはわかりません。


万物の関係性の中でうまく生きていくためには「節度」が必要です

豊かな感性は節度を生みます

そして

その種の感性はおそらく

ストレスに対する受動的対応により育まれます

折れることが大切な所以です

戦争や裁判など、ストレスに対する攻撃に明け暮れているようでは

まだまだ拙いと思います。


他にも、うまく生きるためには、

マルサス的視点などいろんな事項を考慮する必要があるでしょう。


また、何かうまくいっていないときには、

たいてい、その時代、あるいは前時代に軽視したものに一因があるのだと思います。

宗教、文学、哲学、倫理、芸術、地方、農業・・・

それらが最近日本が科学技術や英語や都市と比較して軽視してきたものでしょう。

私がささやかながらも学んできた実感としましては、どれも大切ということです。

食わず嫌いはよろしくない。

国際競争とか経済成長などという言葉に踊らされすぎて、

浮き足立ってはならないでしょう。

それらもきっと大切です。しかし、バランスこそが何より大切だと思います。

国際競争はどの程度必要なのか。どういう長所短所があるのか。なぜそうなるに至ったのか。

経済成長と呼んでいるものは何なのか。

一度、「人間が集団でうまく生きていくためにはどのようなかたちになれば好ましいのか」

というところまで降りて考えてみるとよいのかもしれませんね。


互いに向かい合って相手の首を絞め合っていて、

自分が楽になるために相手の首をより強い力で絞めようとしている気がしないでもありません。

そうなると、もちろん相手も必死ですから力一杯こちらの首を絞めてくるでしょう。

どうなのでしょう。互いに手を離せばいいという考えは浅はかでしょうか。

あるいは、下手に楽になろうと思わずに、ほどほどに絞め合うというのはいかがでしょうか。

そうしたいとして、どうやれば離せるのでしょうか。

あるいは、どうやればほどほどに絞めあうことができるのでしょうか。

難しいですね。けれどもある程度わかっている気もします。


とにかく賢く生きたいものです。


しなやかに誠実に

豊かな感性と論理性が育まれますように


上の全ての文章が意味していることは

私は今、ストレスを感じていて

書きながらそれを治療したということです。

少し楽になりました。

こうやって、人様にご迷惑をおかけすることなく治療できるといいですね。


それでは、読んでくださったみなさま、どうもありがとうございました。

*1:比喩的に表現すると、水温20度の大海の中でひとかけらの氷があった場合、その氷に周囲の大海が合わせることは基本的にしないほうがよいというような意味です。氷や水を人と捉えてもよいですし、大海を人以外の人工物を含む地球全体などと捉えてもよいでしょう。