中高生時代(印象に残っている主観的体験・教育観を交えながら)

自己紹介からの移転です。


中高は家からすぐ近くの地元の公立校に進学しました。

城南中学校*1ではバスケットボールをしていました。「フリースローが(無理をしないと)届かないタイプ」でした*2。バネと筋力に少し欠けるところがあったのだと思われますが、持久力は相当アップしました。この時期にも頻繁に山に行っていました。一時期、三国志にはまっていて、登場人物や地名やストーリーをほとんど覚えてしまっていました。中学一年生の時*3白血病により四年間入院していた妹が死にました*4。恋に落ち頭がボーっとして全く勉強が手につかないことが一度ありました*5。中学校三年生の冬に、生まれて以来15年間住んでいた狭い借家から、1kmほど離れたところに構えた新居に引っ越しました。*6

西舞鶴高校*7時代はサッカー三昧でした。部活が終わったあとに、他の高校の友達も加わりナイターでもやっていました*8。「ロングキックの精度が低いけれども、器用さはそこそこあるタイプ」だったと思っています*9。当時は部活と部活後と勉強で常にバタバタしていて充実していましたが、いくら寝ても寝足りなくて朝起きるのが本当に苦痛でした。高校二年生のときに、国語の授業で立って朗読しているうちに、速く読みすぎたためか、呼吸困難に陥り立ち尽くしてしまえたことがありました。以降、どちらかと言うと得意だった朗読に対して、体が異常な反応を示してくれるようになり、ありがたいことに、引っ込み思案な性格に拍車がかかりました*10。すね毛が濃いことを気にすることができていました*11

*1:理由もなくクラスメイトの耳を引っ張って持ち上げる「個性的な」先生がおられました。おそらく、「ピッコロ大魔王@ドラゴンボール」のようなカッコいい耳にしてあげようという善意から生まれた行動だと思います。一度、先生にこの件に関してコミュニケーション(「ピッコロにしたいの?」とは言っていませんが)を図ってみたところ、何の返答もせず無視をしてくださったのが印象的でした。組織には適度な透明性と流動性が必要だと痛感しました。子どもは大人の振る舞いをよく見ています。私もたくさんの心無い言動や軽はずみな行為をしてきました。教訓を生かして賢く生きたいものです。もちろんたくさんの魅力的な先生がおられました。フォローが大好きなのです。

*2:フリースローが届くようになることが、機会があれば叶えたい夢の一つです。今なら届くのかもしれませんが・・。最近、自身の運動シーンの動画を撮って観察するということをしばしば行っています(デジカメでダイレクトに離見の見)。その結果、あらゆるスポーツに共通して、私の課題のひとつはもっと体を「開いて大きく使うこと」だということがわかってきました。性格など、いろんなことが全てひとつながりになっているように思いました。

*3:六月二日深夜でした。

*4:明るく、はっきり主張し、人前が大好きな我が家のムードメーカーでした。例えば、「全校生徒の前で話ができるなんていいなぁ!」という主旨のことを言っていたこともあったように、私からすれば信じられないほど人前の大好きな憧れるタイプの人でした。幼稚園児のころからの大好物が、ひらめや鯛の刺身、イカの塩辛、へしこだというとても個性的な人でした。彼女は入院生活の影響もあってか、読書量が半端でなく、また、養護学校の素晴らしい先生方に丁寧に育んでいただいたおかげもあり、今の私が判断する限り非常に文学的、教育的価値の高い日記や詩などの作品群を残していて、今でもなお学ぶところが多いです。将来web上にて、あるいは書籍として公開しようと思っています。今でも家族でいると、しばしば、そこに「空席」があるように感じます。最近、いわゆる「天国」と呼ばれていた概念の発生の仕方と効用がなんとなくわかる気がします(明晰な自我のあり様における「存在」を主張しているわけではありません。「幽玄」などの昔の日本に存在した精神と通ずるものがあるのだと思います。)。私の周りにはどうも「宗教を嫌いすぎてしまえる」人が多いようです。実は私もそうでした。これは歴史的経緯に根ざした反動のためだと思うのですが、現代において支配的な科学的世界観の弱点の一つはおそらくここにあるのでしょう。人間理解の幅が少々「狭い」と思うのです。大抵、何かが否定されると、一度「極端」を経由した後に「ほどほど」にたどり着くものだと思います。仮に、過去の宗教的世界観に対する極端な反発の結果、宗教的世界観だけでなく宗教に含まれていた数々の生存上の叡智まで捨て去ってしまったとしたら、人類にとっての大きな損失になるでしょう。観察事実として、科学信奉者(このような語り口で十羽一絡げにカテゴライズする姿勢は好きではありませんが、これは必ずしも科学者とイコールではないと思います。ただ、現代に蔓延するムードの中に、科学的思考をするとき特有の意識の濃度と頭の使い方の正当性と優越性を主張し強制することの危険性に対するナイーブさの欠如を感じることは多いです。)にせよ、宗教信奉者にせよ、何にせよ、原理主義者は存在するようです。これには、利と害の両面があるのでしょう。私は、現場で取り組んできた結果、科学的アプローチというものは非常に優れた方法の一つだと思っていますし、その精華自体は素晴らしいものだと思っています。今後、科学も含む学問全体の進展により、枠組み自体が変化していき、この問題は矛盾なく解消されていくのだろうと楽観しています。

*5:自分の内面をさらけ出すのが苦手だったため、理性で押さえつけました。

*6:借家ではしばしばナメクジとスキンシップができる(踏んでしまえる)こともありましたから、当時は、家族全員が新居を喜んでいました(特に父がうれしそうだったのが印象的でした)が、幼い頃からお世話になっていたご近所さんとの絆が切れてしまったのが今でもとても残念です。生まれ育った故郷と距離は近くとも、新興住宅地に移り住んで高校時代の三年間しかいなかった私は、主観的には「準根無し草」です。二三年前、帰省したとき、故郷が急激にスラム化していて愕然としました。どうやら近年、舞鶴では、宅地目的の農地転用が増加傾向にあるようで、人口(約9万人)はほぼ横這いにも関わらず住居数が増加しているようです(核家族化)。景観が急激に醜くなってしまった背景には、おそらくこのことの影響もあるのでしょう。地方における雇用創出や経済活性化が死活的に重要な問題であることは十分わかりますが、環境が人心に与える影響を過小評価しすぎているのだとすれば長期的生存を考えた際のリスクが大きすぎると思うのです。味音痴がわからずにさらに不味い料理を作り続けるようなことは断じて避ける必要があるでしょう。乱暴すぎると思うのです。自分の土地は何に使ってもよいという考えはあまりにも幼稚だと思いますし、行政がそれを許可しすぎるのも浅はかでしょう。環境の美しさは人間の内面の美しさと密接に関係しています。素材は素晴らしいのに生かしきれていないのが残念で仕方がありません。例えば、京都市内の山際の集落と自分の故郷を比較した時、我が故郷の人々(私も含まれます)の故郷に対する愛情の欠如を感じざるを得ません。愛情の欠如は集落を急速にスラム化させます。自分の今出来ることをやりつつ経験を積み、美しさを保持しつつ、風土、地政学的特長を生かした産業、ライフスタイルを育み、その結果、活気ある愛せる故郷にする、長期的な、さらに、短期的かつ具体的な道筋を模索したいものです。機が熟すればぜひとも市政に関わりたいと思っています(やっぱりしんどいからやめときますわ)。また、自身および自身のルーツを掘り下げることを学びの根本に据えることは非常に重要だと思っています。私は勝手に「一人一学問」を推奨しています。一人一人異なる身体構造と生い立ちを持っている無二の存在なのですから、当然、人の数だけ掘り下げるべき対象が存在するわけですし、一人一人が自身とそのルーツについてのエキスパートになれるわけです。そして、このことは個々の生存にとって決定的に重要なことだと思っていますし、種の存続の観点に立っても重要だと言えるのではないでしょうか。こういう理由により、私は自己教育に励むと共に、地元での教育にもぜひ携わりたいと思っています。ついでに言っておくと、多くの地方に等しく言えることかもしれませんが、パチンコ屋と消費者金融が多すぎて、見ているだけで陰鬱な気分になってしまいます。麻薬と同様、ギャンブルによるアディクションも十分に恐ろしいものです。楽しそうに語るパチンコ好きのおじさま、おばさまがたには微笑ましさを感じつつも、景観、治安、人格の変容、文化水準などの点を考慮すると、趣味として放置しておくにはデメリットが大きすぎるでしょう。仮に私が政治に携わることになったとしたら、真っ先にそれらの規制に着手しますから、絶対に私を支持しないことをオススメします。このように言いつつも、今でも田舎のカラスは元気にのびのびと飛んでいます。空は広いし、空気はおいしい。夜には静寂の中できれいな虫の音やカエルの歌声を聴くことができます。自然環境や景観に関しては、これでもまだまだ都市とは比較にならないくらいに素晴らしいのです。

*7:高校では、大学合格や就職などの現実的目標を見据えることはもちろん大切ですが、それのみに囚われすぎて近視眼的になるのではなく、もっと長いタイムスパンで人生を見つめるような視点を与える骨太の進路指導をするのがよいでしょうし、それが出来るよう教師(や我々大人)はよりいっそうの自己教育に励む必要があるでしょう。

*8:これが一番の楽しみでした。

*9:ロングキックの精度をベッカムクラスまで上げることが夢の一つです。本当はもちろんそこまで望んでいませんが。

*10:朗読や話すことがもう少し得意になるのが夢の一つです。

*11:二十代半ばまで気にしていましたが、最近は何も気にならなくなっています(気にすることができなくなっています)。人によっては、胸毛であったり、思春期にはいろいろとあるようです。