今日も自己紹介を分社化――幼稚園・小学生時代の思い出


はてなのせいで*1、前日に引き続き、今日も自己紹介からの移転です。申し訳ありませんが、以下の文章は、皆様に楽しんでいただこうという意図はほとんどなく、自己治療、および、もし知りたいという奇特な方がおられた場合には読んでいただこうという目的で、思いついたことを、順序を無視して、とりとめもなく淡々と書いています。もちろん書かれていないことも無数に存在します。


幼稚園・小学生時代の思い出(生き物以外・印象に残っている主観的体験・教育観を交えながら)

間違いなく自分の記憶だと言える最古のものは、三歳か四歳のときに幼稚園の隣のクラスの女の子に対して好意を持っていたということです。私は恥ずかしがり屋でした(です)から、これを成人するまで誰にも言ったことがありませんでした。

はじめてサンタクロースにお願いしたものは「にんじん」、小さい頃の夢は「郵便屋さん」でした。

覚えているかぎりでは、幼稚園時代に二回、小学校低学年の時一回、小学五年生で一回○○○をもらしてしまいました。最後のはどうかと思いますが、私の当時の性格を表す象徴的な出来事だと思います。

将棋が好きでした。小学校高学年のとき憧れの桂三寸の将棋盤を買ってもらい、友人や父親と対局したり、NHKの将棋講座やNHK杯棋譜を並べたりしていました。当時、羽生善治さんはまだプロになりたての四段で、かつての定石にとらわれず新しい将棋を模索する姿がかっこよく非常に感銘を受けました。意味もよくわからずにまねをして豪快に飛車角を切ってしくじることもしばしばありました。

親友と二人で山に基地をつくって遊んでいました。高いところからのんびりと、穏やかな街並みや海を眺めていました。竹の子の生長のあまりの速さに、不気味さを感じたことがありました。

そろばんを小学校高学年の頃に習っていました*2。暗算が苦手でした。頭の中に珠を浮かべろと言われるのですが、珠がどうしてもぼんやりしてくるのです。

当時はとにかく早く山に行きたくて上の空でした。

小学校3年生から、書道を9年間習いました。とても柔和なおじいさんの先生が優しく手を握って教えてくださりました。掛け時計をちらちらと見ていると、空気を読んで早く帰らせてもらえました*3

勉強は、算数が得意でした*4。今から思うと、例えば、1+1=2を始めとした諸概念を、順調に、すんなり引き受けて理解することができたことが奇跡のように思われます。おそらく、当時は教条として与えられた理科などの諸知識を無批判に受け入れることができた(受け入れてしまっていた)ということが、よくできた理由の一つだと考えています。つまり、当時は原理主義者として順調に育まれていたということです。

スポーツは、球技や長距離走はわりあい得意、水泳や、跳び箱などの体操競技は苦手で、特に水泳は一年生の時の授業で死にかけて以来*5、いやでいやでしかたがありませんでした*6。重力方向に対して身体の上下が逆さまになるようなスポーツやエンターテイメント―例えば逆立ちや鉄棒、ジェットコースター―は今も昔も苦手です*7

私の親友は、算数が苦手*8で、水泳や体操種目をはじめとしたスポーツ全般、ギターが得意な人でした。私と真逆ですが、笑いのツボや遊びの志向性はよく合いました。そういう体験を通して、人それぞれ得手不得手や興味関心、学びのスピードは違うのだということを実感しました。初等・中等教育においては特に、そろえることにとらわれすぎず、個々の理解に応じて対応し育むことのできる教育環境が整うとなおよいのだと思います。なにしろ学問(学ぶこと・育むこと)は一生かけて行う長い長い道のりです。その礎を築く義務教育の9年間と高校の3年間の計12年間にも渡って一日の大半を過ごす場が、一人一人にとって有意義な学びの時間にならなければ、長い目で見て、貴重な青少年時代がもったいなすぎると思うのです。

転校生と親友になることがよくありました。転校生の親は転勤族の場合が多いので、せっかく仲良くなった親友が何人も引っ越していなくなってしまい、残念でした。

小学校時代の先生は、「人の気持ちを思いやること」や「人の立場に立ってみること」の重要性をよく説いておられたと記憶しています。様々な人の置かれた状況を仔細に想像し、主体の関与を通して内側から理解することを試みることの大切さと難しさを最近ますます強く感じています。説くだけでは不十分だと思いますが、よい教育を受けたと思っています*9



今後、勝手に加筆修正することがあると思います。

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*1:はてな」は真面目だから〜略。

*2:あまり楽しくありませんでした。授業の最後に出される「1から○○・・までを足して○○・・を掛け○○・・で割る」という課題が出来た人から帰れたのですが、早く帰りたい一心で、試行錯誤しているうちに、頭とお尻の2組の数を順に足していくと全て等しくなるということに気付きました。これに気付いたときの(気付き自体および早く帰れることに対する)喜びは鮮明に覚えています。こういう「個人的新規性」の喜びは「社会的新規性」とは無縁のところに存在するようです(もちろん個人的にも社会的にもこの種の体験に意味はあるでしょう。富士山に登った人が無数にいるからといって、ある人が富士山に登る体験に意味がないことにはならないのと同様に。)。横着のメリットを実感しました(珠算が上手くなるという目的のためにはマイナスだと思いますが)。

*3:これに気付いたときの喜びはたいしたものではありませんでした。最近再開しました。日々書道50ヵ年計画を立てています。生きていると仮定しての話ですが。

*4:当時の通知表の担任の先生のコメントを見ると、「わかっているようなのですが、積極的に手を上げない」タイプだったようです。こういうコメントを見ることにより、自身にどういう価値観の刷り込みがなされていったのかをある程度把握することができるでしょう。コメントにあるように、僕は、引っ込み思案とも慎ましやかとも言える(た)のだと思います。僕は義務教育において(少なくとも僕の周りでは)行われていた行き過ぎた挙手礼賛教育には疑問を持っています。ですが、今はこれとは少し違った意味で、前に出るのがもう少し得意になりたいと思っています。主には、もう少し生きやすい状態になりたいし、学習機会の喪失がもったいなすぎるからです。一方で、慎ましやかさは大切にし続けたいと思っています。『銀河鉄道の夜』におけるカムパネルラのような心を大切にしたいのです。

*5:最近までこのことを打ち明けられませんでした。私と同じく泳げない背の低い同級生が足の立たない所で溺れかけ、数十秒間ほど私を水中で踏み台にしてしまいました。苦しくてパニックになりながら、なんとか振りほどき、足が立たない状態で溺れながら必死で叫んで助けを求めたところ、先生3人を含む120人あまりの人たちが、笑うだけでなかなか助けないという放置プレイをしてくださりました。放置プレーがたいして好きでもないにもかかわらずですよ!おかげさまで、憤りと恥ずかしさが体を突き抜けるという貴重な体験をすることができました。それ以降、水中ではどうしても力んでしまえるようになりました。今ではなんとかクロールと背泳は拙いながらもできるようになり、恐怖心もずいぶんなくなり、水泳は趣味になっています。坊主にしてキャップをかぶると少し北島康介さんに似ている(らしい)ため、「平泳ぎのできない北島康介」と呼ばれることもごくまれにあります。平泳ぎができるようになることが夢の一つです。

*6:六年間一度も休まなかったのは今振り返ると驚きです。当時は良くも悪くも真面目でした。

*7:メリーゴーランドでも少し気持ち悪くなることができます。

*8:解答が間違っていると友人達のノートを床に投げ捨てる「個性的な」先生がおられました。おそらく、ノートを拾う動作をさせることにより、かわいい児童達の足腰を鍛えてあげようという善意によるものだとは思うのですが、おかげさまで、見ていて本当に心を痛めることができましたし、腹立たしさを覚えることもできました。間違っていたら復習をする必要がありますから、当然、投げ捨ててはならないでしょう。投げるべきは正解している人のノートでしょう。「梯子をのぼりきった者は梯子を投げ捨てねばならない。」と言いながら。当時は怖くて皆が何も言えない状況でした。組織の健全性を維持するためには、適度な透明性と流動性が必要でしょう。様々な人を見てきた今から振り返ると、私のクラスには(もっと言うと私の故郷には)良くも悪くも穏やかな性格の人が多かったように思います。もし本当だとすれば、なぜそうなったのか、掘り下げると非常に面白いでしょう。

*9:毎日面白い学級のたよりを書いて下さるような、素敵な先生もたくさんおられました。