未来はどうなるのだろうね――ホモサピエンス時代の終焉


僕は小さい頃には最低でも500歳くらいまでは生きたいと本気で思っていたし、周囲の人たちにもそう公言していたと記憶している。もし数十年後に死んでしまうのだとすれば、500年後の未来がどうなっているのか見ることができない。それが残念で残念で仕方がなかったからだ。

あれから20年以上経ち、今ではずいぶん考え方が変わった。僕が小さい頃に軽々しく思っていたよりかは、生きるということの味は僕にとってずいぶん濃いものだった。だから、500年も生きることになってしまったとしたらきっと身が持たない。与えられた分だけ生きることができればそれで十分ありがたい。浦島太郎はごめんだ。今ではこのように思っている。

とは言えやはり、未来の姿は気になるものである。しかし予測は難しい。



今(2009年) → 来年2010年


来年の今頃には、僕は、日本は、世界はどのようになっているのだろう。今後一年の間に何が起こるのだろう。サッカー日本代表ワールドカップ出場決定。これくらいはさすがに当たってほしい。日本の総理は○○になっていそうな気がする*1。三世代、四世代同居ブームとか来るのかな。



もう少し視野を広げて、百倍のレンジで時を眺めてみよう。


1959年 1969年 1979年 1989年 1999年 今(2009年) 2019年 2029年 2039年 2049年 2059年


たった50年前の西暦1958年の世界において、当時から見て50年後に相当する今の社会の有り様を予見できた人っていたのかな。日本ではテレビも携帯もパソコンも、そして今あるほとんどの家電が存在しなかったし、アスファルトで舗装された道路も少なかったんだよね。たった50年で驚異的な変化だよね。じゃあ、50年後の西暦2059年にはどんな世の中になっているのだろう。今0歳の赤ちゃんたちが50歳になってる。これはきっと当たる。高発電効率太陽光発電による分散型エネルギーシステムは構築されていてほしいね。世界中の武器の数が減っているとうれしいね。アジアの国の数は変わっている気がする。アスファルトの道路や電線はなくなっているだろうね。どんな音楽が流行っているのだろう。人体作製技術はどのくらい進歩しているのだろう。



さらに視野を広げて、上の三倍のレンジで時を眺めると


1859年 1909年 1959年 今(2009年) 2059年 2109年 2159年


わずか150年前、1859年の日本は江戸時代である。徳川家による実質的専制により統治されていた差別的な身分制度の存在する社会。お腹一杯食べられるようになったのも、職業を自由に選べるようになったのもつい最近のことなんだよね。今とは比べ物にならないほどたくさんの理不尽があったのだろうね。僕たちの今使っている日本語の熟語の多くがまだ存在しなかった時代。電線のない風景はきっと素朴で美しかったのだろうね。19世紀、20世紀という時代が、現時点において、例えば、産業革命と科学技術の飛躍的進歩、帝国主義、民主主義、資本主義などという言葉によって位置づけられるのだとすれば、22世紀、23世紀から見たとき、今の我々の時代は歴史の流れの中にどんな言葉で位置づけられているのだろう。たぶん彼らから見れば今生きている我々はずいぶん浅はかなのだと思う。彼らはどんな政治体制の下、どんな人工物に囲まれ、どういう伝達手段でどういう言語を話し、どういうものを食べ、どういう知識と倫理を持ち、どういうふうにエネルギーを利用しているのだろう。ひょっとしたら、ホモサピエンス時代はもう終わっているのかもしれないね。



さらに、視野を広げる。上の約70倍。


BC7991年 BC2991年  今(2009年) AC7009年  AC12009年


文字の存在しない社会を生きる人たちは世界をどのように感じていたのだろう。数千年前に農耕型社会が生まれてから今までの間にずいぶん環境や蓄積された知識量が変化したよね。じゃあ、5000年後の西暦7000年には地球は、宇宙はどんな様子になっているのだろう。遠すぎて想像できないけれど、高等生物が存在すると仮定して、彼らが今の我々とは全く違う言葉を使っていることは確かな気がするけれど。携帯電話や車やペットボトルが博物館に展示されているのかね。縄文式土器みたいに。



さらにぶっとんでみよう。上の約100万倍。


100億年前 50億年前 今 50億年後 100億年後


一億年前には今の人間ような構造の生き物はいなかったと言われているよね。でも、僕(そしてあなた)の祖先に相当する生き物はダーウィンの説明に従うとすれば、確かに存在していたわけで。じゃあ、一億年後にはどんな生き物が生息しているのだろう。僕たちの子孫が生き残っているとしても、進化・分化の結果、もはや今の人間とは似ても似つかぬ別の生き物たちになっているのだろうね。まさに今生きている僕たちも進化の過程(あるいは淘汰の過程)の真っただ中なのだろうけれど、時間の経過の体感スピードが遅すぎて感じることができないだけなのだろうね。僕たちの知らない○○という認知の有り様を獲得しているだろうし、地球以外にも移住しているのだろうね。



以前、僕はすてきな人に出会ったことがある。その人は、5億年以上前の先カンブリア時代に存在したと言われているエディアカラ化石について、とにかく夢中で話をした。聴いているうちに僕は、狭い講堂にいるにもかかわらず、突き抜けるような解放感を味わった。自由とはきっとこういうことなのだと思ったし、これこそが学びの意義のひとつに違いないとも思った。星を見ることは過去を見ることだという言葉がすきだ。遠くを、過去を、未来を、永遠を、無限を志向することにより、時間や空間の制約を越えて、自由になることが出来る。



最後に、僕の好きなアインシュタインの言葉を


「それでも、永遠なるものに関心を抱くのがいちばんいいでしょう。

というのは、それのみが、人間社会に平和と平穏を回復させる精神の源だからです。」

アインシュタイン150の言葉』、ディスカヴァー・トゥエンティワン、39頁

*1:二文字じゃなければ予想がはずれてしまう。テポドンの動向しだいで日本の総理が変わりそう。大切なのは、リラックス!だよね。