海雪と手紙とHARUMA富士

あけましておめでとうございます

外では雪が深々と降りしきり、白いパウダーをまぶしたお菓子の国のようです。というのはちょっと言いすぎですが、年末は実家で紅白を見ながら過ごしました。特に楽しみにしていた歌手が、アンジェラアキさんとジェロさん。なんとなく「ジェロさん」と言うと違和感があるのはなぜでしょうか。年齢が下だからというのもあると思います。あると 思います。

アンジェラアキさんの表現は、言葉とパッションが渾然一体となり、その姿はしなやかにして力強く、生命力あふれる野生の動物のよう。あの表現に至るための経験に加え、作詞作曲を手掛けピアノを演奏しながら歌うという、いわばロイヤルストレートフラッシュ状態にある表現者だからこそ、あれだけの迫力がでるのでしょうか。そういえば、スポーツ選手でもアーティストでも、本物は動物のように見える気がします。例えば、イチローマンUルーニーは、猫や豹のように映ります。

ジェロさんは、現代の日本人の多くが失ってしまったであろう古き良き日本の精神文化の体現者だと思います。今の日本人より日本人らしい人。とても慎ましやかで誠実に見えます。彼を見て「日本人」を再発見しました。彼のいいところを見習いたいものです。あるコミュニティーにおいて過去にあった良いものが、当地で失われ「異」国で保存されているいい例だと思います。たしか、古代ギリシアの学芸の精華の多くは中世ヨーロッパにおいては一度途絶えたが、イスラム圏にて保存されていたため、ヨーロッパではルネッサンスの頃に再び外国語で再輸入することになったという話を聴いたことがあります。

ジェロさんの今は亡き日本人の祖母は、紅白が大好きで孫の出場をずっと夢見ていたらしく、また、ジェロさん自身も、紅白に出るのが長年の夢だったそうです。そんなジェロさんが祖母の顔のプリントされた服を着て登場したシーン、ジェロさんのお母さんが感極まって涙されているシーン、歌い終わった後あふれでてくる涙をこらえきれないシーンを見ていて、ジェロさんとご家族との「異」国での二十数年間を想い、目頭が熱くなりました。心からおめでとうと言いたい。

他の紅白出場者では、一青窈さんは昔から好きだし、青山テルマさんも少し気になっていました。

見終わってからふと、私が気になっていたアーティストは全て日本人と外国人とのハーフかクウォーターだということに気づきました。

そういえば、相撲の白鵬とかHARUMA富士のたたずまいも結構好きです。彼らはハーフではありませんが、日本と呼ばれている閉鎖的な島に入ってきた「異」であるという点では共通しているでしょう。

では、なぜ私は「異」に惹かれたのでしょうか。

ここで、現在日本と呼ばれている国の特徴を使用言語の種類と分布の観点から少し考えてみます。金田一春彦『日本語』によると、「一国一言語というのは、主要なものは、韓国と北朝鮮朝鮮民主主義人民共和国)ぐらいで、多くはモナコバチカンのような小国である。」「日本では国語だけでなく、公用語も日本語一つしかない。公用語がただ一つだということは、日本の著しい性格である」とのことです。つまり、他の多くの国々では国内においても異なる言語を話す人がたくさんいたり、言葉が通じないことがしばしばあり、国内において「異」を感じる機会が日本に比べ格段に多いようなのです。さらに、「日本という国は、大体住んでいる人のほとんどすべてが日本人または日本人と同じような顔をした人たちであり、どこへ行っても日本語を話す人ばかりだと言っていい。」「一方、日本から一歩外へ出ると、これは外国語の世界で、日本語が通じにくい。これは一般の日本人は当然だと思っているが、ほかの国に比べると特殊なことである。」「日本語は、日本の国境の外にはまったく日本語の領域をもっていない点、むしろ言語として珍しい。」とのことです。つまり、内にばかりいると気づきにくいけれど、国内のどこへ行こうが誰に話しかけようが、言葉の通じない状況に陥ることや「異」を意識することが極めてまれであり、かつ、一歩外へ出ると全く「異」なる言語を使用する「異」なる風貌の人ばかりであるという今の日本の状況は、世界各国と比較した時極めて異質であるということになります。日本のともすると均質化してしまいがちな傾向の一因は、ここにもあるのでしょう。この現在の日本の特徴を自覚しておくことは、ともすれば閉じやすい傾向にある私にとって非常に重要なことだと思われます。

経験的に、個体や組織の健全性の維持や文化のさらなる発展のためには、適度に「開く」ことが大切であり、区切りすぎたり閉じすぎたりしてしまうとその個体や組織は脆くなり腐敗し衰退していく傾向があるように思われます。従って、人種や国などといった同族意識にこだわりすぎて、「異」を否定したり排除しすぎたりしてしまい、結果、閉じすぎてしまうという事態に陥らないよう、十分に警戒すべきでしょう。○○人としての「誇りをもつ」というとき、過剰な同族意識により、上のような状態に陥ってしまうと危ういでしょう。そうではなく、「異」を知ることで己を知り、誇れる「異」を尊びつつ己を誇る。これならば大丈夫でしょう。そもそも○○人という概念(アイデンティティー)は時代と共に変化していく一過性のものでしょう。「己」の形は刻一刻変化していくものであり、己の中から「異」が生まれたり、「異」と思っていたものが「己」の一部になったりするのでしょう。

近年、日本において「異」の活躍が目立つのは、情報、移動、流通ネットワークの急速な発達に伴い、世界が急激に交じり合っていく情勢を鑑みると当然のことなのでしょうし、今後ますます増えていくのかもしれません。そして境界線は急激に変化していくのでしょうか。どうなのでしょう。

ずいぶん回り道をしましたが、上記した私の紅白出場歌手やスポーツ選手の好みは、このような世界情勢に心身を無意識的に適応させようとした結果なのかもしれませんし、あるいは、健全な心身や組織を無意識的に志向した結果なのかもしれません。私の今年のテーマの一つは、「開く」ことです。

ということで、まずはジャブ程度に「開く」ために、近所の神社に家族で初詣に行ってきました。目を閉じ、何も言語化せず、ただ心身を意識して手を合わせておきました。