死刑存廃問題について

この記事は、永遠に建設中ということになるのかもしれません。(This article may be under construction everlastingly.)そのうち推敲します。読みにくいと思いますが、ご容赦ください。



死刑存廃問題を論じるにあたって、以下のアプローチで考えてみます。



1. 種としての人間の長期的生存を死刑存廃問題議論の根本に据える

最も重要なことは「種としての人間の長期的生存」*1であり、そのための一案として、「凶悪犯罪を減らし、かつ、個々の人格がより尊重される平和な社会を構築すること」*2が挙げられます。歴史を参照すると、このような社会の実現のためには、「安定した社会秩序を形成すること」が必須でしょう。安定した秩序形成のためには、第一に、食料や住居などの人間が生きるために欠かせない物資が多くの人に行き渡ることが必須だと思われます*3。さらに、情操教育*4や、主体性の涵養も重要でしょう*5。情操教育や主体性の涵養により、法律などにより強制されなくとも、主体的に命を尊重し、公の精神で社会秩序の維持に取り組む人が増えることが期待されます*6



2. 上記観点から現代国家を見つめる―フィンランドなど

上記の安定した社会秩序維持の条件を比較的満たしていると思われる興味深い国家の例として、フィンランドが挙げられます。フィンランドは、とりたてて犯罪率が低いわけではないものの*7、高福祉国家であり、また、競争に囚われすぎず、助け合い、主体性を重んじる教育を推進しています。このような環境で育まれた、主体的に学び考えることのできる個体は、注5にて言及した理由により、高い創造性を発揮し、多くの知恵を生み出すでしょう。実際、フィンランドは国際学力調査PISAにおいてトップクラスの成績を上げ、学力世界一と目されているようですし、世界経済フォーラムの国際競争力比較においても過去数年上位にランクインし続けているようです*8フィンランドのような例とは逆に、言論統制や厳罰化、スパルタ、画一的な教育や競争が行き過ぎた場合には、利己的な人間の増加や、主体性の喪失が懸念されます*9。日本やヨーロッパなどの先進国も比較的、上記の条件が満たされているように思われます。フィンランド型や日本型の社会がベストとは限りません。適度に競争し、適度に助け合う。きっとこのバランスの調節が大切なのでしょうが、状況に応じて好ましいバランスは変わるのでしょうし、それを把握することは容易ではない問題だと思います*10



3. 死刑存廃問題―抑止効果の観点から

以上のような人間や人間社会の性質を踏まえた社会制度設計の一環として、死刑存廃問題は論じられるべきだと思います。死刑制度賛成論の多くは、恐怖により犯罪を抑止するというロジックです。人間には利己的な面や狡猾な面もあると思いますから、罰によりある程度の抑止効果を狙うことも重要でしょう*11。しかし、もし、上記のような制度設計を軽視して厳罰化による秩序維持に重点をおくことにより、仮に犯罪が減少したとしても、その社会は大きなビハインドを負うことになると私は危惧します。つまり、過度の厳罰化により、恐怖からの回避が多くの人々の行動原理になってしまった社会は、主体性の喪失に代表される種々弊害を招く可能性が高いということです*12。ここで、問題の焦点は、「どういう犯罪に対してどういう罰を与えるのか」という「程度の問題」に帰着するでしょう。私は、ある程度失敗(犯罪も含みます)の許される社会が好ましいと考えます*13。人は失敗し、反省することにより知恵を得ることができるからです*14。死刑は存在自体を抹消してしまう反省を許さない刑罰です。従って、粗い議論になってしまいますが、まず、殺人以外の犯罪においては、死刑を適用すべきではないと現時点では考えています。問題は、殺人犯に対する刑罰ですが、殺人は被害者の存在を消し去ってしまう、いわば、修復不可能な犯罪です。一方で、国家による殺人、つまり死刑もまた同様に修復不可能な行為となります。従って、もし死刑を適用するとしても、極めて慎重な事件の検証が必要でしょう。現代の犯罪捜査の技術は以前と比較して格段に向上していますが、それでも、捜査における技術的な問題、あるいは謀略などに起因する冤罪のケースが憂慮されます。そこで、プラクティカルな方策として、終身刑を適用することが考えられます。凶悪犯の再犯率は高いようですから、刑が軽すぎるのは好ましくないでしょう*15



4. 死刑存廃問題―被害者感情の観点から

また、死刑制度賛成論においてよく言われる被害者感情に関しては、次のように考えています。個人が殺人事件被害者の近親者の抱く憤りやつらさ、悲しさに共感することは、非常に大切で、かつ自然なことだと思います。例えば、日本では光市母子殺害事件という非常に痛ましい事件がありましたが、被害者の夫である本村洋さんの心中は察してあまりありますし、彼が死刑を支持する気持ちはもっともだと思います。しかし、殺人に限ったことではありませんが、局所的な感情を共感により増幅して集団の意思決定に用いてしまうと、しばしば集団として歩むべき道を誤ることがあると経験的に思うのです。共感は大切ですが、組織のリーダーや権力者(国家も含まれます)が、局所的な情に流されてバランスを欠いてしまうと組織の存続が危うくなる場合があると思われます。リーダーにはバランスのとれた全体的共感が不可欠だと思われます。今の日本やアメリカなどの場合、国民主権ですから、国民一人一人(我々)の集合体が権力者そのものであり、集合体の意思が国家の意思ということになります。ですから、局所的共感により国民の多くが感情的になり、その状態で政策判断をすることは極めて危険なことでしょう。うまく生きのびるためには、政策判断にあたって、感情のバランスを整えた上で、合理的判断を下すことが大切だと思います*16。抽象的な説明になってしまいましたが、私はこのように考えています。



5. 弱弱しい結論と今後の展望・期待

以上のような理由で、私は迷いつつも、今のところ、少なくとも現在の日本の状況においては死刑は好ましくないのではないかと思っています*17

将来的には、脳科学を始めとした諸学問の発達により、犯罪に至るメカニズムの理解が深まるとともに予防法もしだいに獲得され、人間観が変化していくのかもしれません。それに伴い、死刑制度は衰退していくと予測しています。長い目で歴史を見たとき、確実に個々の人格を尊重する方向へ人間社会は進んでいるように私には映ります*18

実は、これまでこの問題について深く考を詰めたことがありませんでした。今回、ある記事に触発されて、とりあえず書いてみることにより、問題の難しさや複雑さおよび、この問題に関する自身の知識の欠如を痛感しました。ちょっと手に負えないので、情報収集、思考*19を重ねながらぼちぼち改稿していこうと思っています。お詳しい方は情報提供していただけると幸いですし、どなたでも感想や情報を気軽にいただけると幸いです。

reference

*1:と簡単に言うが、恒久不変の種というものの存在を想定してしまう態度は知的誠実さを欠くと思われる。今後じっくり考える。

*2:これまで人間社会の体制は転移を繰り返してきた。過去の転移の際には種々の激しい擾乱が付随した。転移は避けられないことかもしれないが、今後は知恵を駆使して転移の際の擾乱を小さくすることが望まれる。と思っている。可能なのかはわからない。

*3:飢饉による秩序の崩壊の例は枚挙に暇がない

*4:万物の関係性の中でうまく生きていくためには、おそらく節度が必要であり、経験上、豊かな感性は節度を生むと思われる。

*5:主体性、つまり自分で課題設定をし、考えることなくして有用な知恵は得られないだろう。この主体性により知恵を獲得することは、人間の生存にとって有利である可能性が高い。人間の圧倒的繁栄は、肥大化した脳により生み出された知恵によるところが大きいと思われる。食糧生産技術の向上や、科学技術の精華、病原体や猛獣からの護身などの繁栄に寄与する要素のいずれもが知恵の獲得によるものでしょう。

*6:あくまで憶測だが、このような社会形態のほうが、システムとしてよりロバストである可能性が高いのではないかと現時点では考えている。知識不足なので今後この周辺を調査し、考える必要がある。

*7:国連の各国犯罪調査http://www.unodc.org/pdf/crime/eighthsurvey/8sv.pdfより精緻な議論を展開するためにはこれらのデータの取得方法を調査し、各数値が何を反映しているのか知る必要がある。

*8:福田誠治『競争やめたら学力世界一』朝日新聞社。この件について知識不足なので今後調査する。

*9:http://d.hatena.ne.jp/okayasukenji/20081013

*10:なぜフィンランドや日本、あるいは他の諸国が今のような政治形態になったのか、どういう経緯を辿ってきたのかを種々の観点から経験主義的に考察してみることにより、システム構築のための今よりかは普遍的な原理が得られるのかもしれません。

*11:軽犯罪に関しては比較的効果があるのではないかと推測しますが、殺人などの凶悪犯罪に対して効果的な抑止力となりうるのかについては私は今のところ懐疑的です。PTSDなどにより、情動や認知が極端に歪んでしまっている状況において、合理的に自身の生存可能性を高める方向に人間が行動するとは限らないと思うからです。殺人事件と一口に言っても、様々な種類があるのでしょう。もし、抑止効果について考を深めるのならば、今後、個々の凶悪事件に関しての丁寧な情報収集と主体の関与を通しての理解を試みることが不可欠だと思っています。

*12:http://d.hatena.ne.jp/okayasukenji/20081013

*13:話が逸れますが、犯罪や過失に限らず、チャレンジングな行動や不確定な仮説や奇説の主張が極端になされにくい雰囲気の組織や社会になってしまった場合、産業や文化、学術や技術の停滞が危惧されます。多くの人が守りに入ってしまって無難なことしか言えない(言わない)閉鎖的で腐敗した雰囲気に陥らないための工夫が必要でしょう。例えば、正解することを褒めすぎてしまい、失敗を恥とみなしたり叱りすぎてしまう教育や社会風土は好ましくないと私は考えます。私自身の受けた教育を振り返ってみると、例えばテストや授業中の発言などで正解を言うことが賞賛されすぎていたように思われます。思考のプロセスや発想を褒め、検討する風土が生まれるとよりクリエイティブな社会になるのでしょう。集団としては、新規の思想や概念とそれに対する批判とのバランスが大切でしょうし、個人としては、失敗や批判を恐れるあまり、保守的になりすぎてしまう傾向が人間にはしばしばあるということを自覚しておくことが大切でしょう。批判が目的化してしまっている人の中にはきっと失敗を恐れすぎている人もいるのかもしれません。過去に新たな思想や概念を生み出したクリエイティブな人というのはたいてい普遍性を獲得するに至らなかった現代から見れば珍説ともいえる思想や仮説も立てているように思われます。一方で、蓋然性の極めて高い領域から慎重に一歩を踏み出すタイプの人もまた必要でしょう。

*14:なぜこうなったのか、いろんな地点に遡って分析し、各地点において、こうならないためにどうすればよかったのかを考える。そういうプロセスを経ることで、自分が変わり、知恵を獲得すると共に、過去をありのまま「運命」として受け入れ、自我で引き受けることができるようになる。そういうプロセスを経て得られた普遍的な知恵は、自身のためのみならず、同時代および未来の他者にとっても有用なものになりうる。これが失敗から学び知恵を蓄積し、継承するということだと考えています。

*15:今後、人間の行動原理に関する理解の

*16:本当にそうなのか今後考えを詰めていく必要がある。このへんを掘り下げていくと、より好ましい政治形態が見えてくるのかもしれません。独裁でも今の民主主義でもない次の形が。

*17:あらゆる政治体制や状況を十羽一絡げにして、賛否を論じるのは乱暴だと思っています。状況に応じてふさわしい刑法は変化するのでしょう。要は、死刑制度を持たなくてもよい、あるいは、その適用範囲が極めて狭くて済むような社会・環境状況を志向することが重要なのでしょう

*18:これが本当だとすると、なぜそうなってきたのでしょうか。今後どうなるのでしょうか。

*19:見落としている観点についても考える。具体的事例、関連書籍、法学、法哲学なども学ぶ。