真の田母神俊雄観――人がたくさん死んだ過去を無理に誇ろうとする態度は事態から目をそむけているのにすぎない


秋も深まり、おもしろい人が増えてきました。

今話題のアパグループ主催第1回「真の近現代史観」懸賞論文において最優秀藤誠志賞という賞を受賞された田母神俊雄さんの「日本は侵略国家であったのか」http://www.apa.co.jp/book_report/images/2008jyusyou_saiyuusyu.pdfを読んでみました。なお、佳作以上の作品は「誇れる国、日本」という論文集としてまとめて後日発行されるそうです。

聞くところによると、田母神さんはユーモアあふれる人だそうですが、さすが、その評判どおり、ユーモアあふれる作品に仕上がっていました。

論文の内容に触れる前に、まず「真の近現代史観」という懸賞論文のタイトル。「真の」。この感じ。私は好きです。要するに主催者は、我々は「そういう人達」であり、この企画は「そういうもの」として認識してくださいねというサインを出してくださっているとても親切なかたたちなのです。私は以上のような「真の解釈」に到達することができました。もちろん、「私が間違っているとは思っていません」。なぜなら、私が間違うということはありえないはずだからです。はずだからです。

ということで、さっそく田母神さんの論文ですが、

六文字で要約すると、

「くやしいです!」@ザブングル加藤

ということです。

私はここでも適切な推論により以上のような「真の解釈」に到達することができました。

それでは、どういうふうにくやしいのかを解明すると共に、田母神さんの巧みな笑いの仕掛けを解剖してみましょう。

田母神さんは論文で

我が国は国民党の度重なる挑発に遂に我慢しきれなくなって1937 年8 月15 日、日本の近衛文麿内閣は「支那軍の暴戻を膺懲し以って南京政府の反省を促す為、今や断乎たる措置をとる」と言う声明を発表した。我が国は蒋介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者なのである。

とか

日本はルーズベルトの仕掛けた罠にはまり真珠湾攻撃を決行することになる。


と、おっしゃっています。

「挑発に遂に我慢しきれなくなって」

ルーズベルトの仕掛けた罠にはまり」

これでは非常に愚かです。日本人の祖先はアホですと言っているようなものです。従って全然誇れない。「誇れる国、日本」という論文集としてまとめて後日発行するという前フリがあってのこのボケ。さすがに巧みです。

笑い飯風にボケると、

「日本はルーズベルトの仕掛けた罠にわざとはまったふりをし、真珠湾攻撃を決行し、そして勝てたのにわざと負け、GHQに支配されたふりをして防衛を米国に任せ経済に特化し、朝鮮特需などを利用し狙い通りの経済発展を遂げたのである。」

「負け惜しみやないかい。そんなんで誇れるか。かわれ。」

こんなかんじでしょうか。


あまりこういう話題でふざけすぎるとアレなので、悪ふざけはこのくらいにしておきます。

おふざけ解禁になってはじめて真に傷が癒されたと言えるのだと思います。例えば今、戦国時代ネタでボケたとしても本気で怒る人ってたぶんいないですよね。
各国にいろんなつらい思いをした人がおられるのにふざけるのはタブーでしょう(上のは大丈夫かな)。ですが、戦後63年経ってそろそろ過渡期に入りつつあるのかもしれませんね。

一般論として、歴史―従って近現代史も含む―を学問的な意味において調査、解釈することは人間がうまく生きていくために大切なことでしょうし、様々な観点、見解が出ること自体は健全な社会を維持するために重要なことでしょう。しかし、強い感情のしこりがとれないうちは、なかなか冷静な判断がなされにくいと、特に直近の戦争関係の論文や発言(学術的価値のないものや、そもそもそのような目的で発信されていないものも含みます。)を見ていると思います。そういうものを書かれる方々はそれぞれ、相当する出来事があったのだとは思いますが、コンテンツの是非を問う以前に、自我のいびつが文章からビンビン伝わってきて受け入れられない場合が多いように思います*1

過去に大きな屈辱や劣等感を味わった人や民族というものは、その後しばらく極端な思想をもってしまう傾向にあると思われます。日本も例にもれずその傾向があるのでしょう。つまり、「日本はダメ」と極端に自虐的になってしまって、これまでの日本のあらゆる時代の文化、教育、体制などを十把一絡げに否定してしまう態度もしばしば見られますし、逆に「日本は素晴らしい」となんでもかんでも極端に自己正当化してしまうパターンもよく見られます。そして、そういうメンタリティーに陥っている人間は、自分の言説を補強するのに都合のよい資料のみを無批判に受け入れ続ける傾向が特に強いようです*2。こうしてどんどんいびつな思想が形成されるのでしょう。

戦争をしたこと、人がたくさん死んだ過去を無理に誇ろうとする態度は事態から目をそむけているのにすぎないと私は思います。もし殺人が好ましくないことなのであれば、一連の戦争は人類にとっての(もちろん日本も含まれますが)「失敗」なのだから、同じミスを繰り返さないよう十分に分析をしてフィードフォワード制御で先手を打つことが大切だと思います。そういう分析が進むにつれて、一連の事態を自我で引き受けられるようになってくるのだと思っています*3

誇れるとすれば、例えば、黒船が来てテンパって以来、必死で西洋の科学技術や生活習慣、制度、哲学、文学などを、相当無理をしながら、涙ぐましい努力をもってして輸入し続け、最近少しずつ馴染みつつあることでしょうか。

そして、もちろん奥のほそ道やジブリの作品、鳥獣戯画*4狩野永徳の絵画、清水寺などひとつひとつの文化遺産は誇るに値するものだと思いますし、日本だけのものではなく人類全体の宝のひとつだと思います*5。ひとつひとつ個物を愛していくことにより自分の故郷や接してきた文化を愛せるようになるのが好ましいのでしょう。大文字の「国家」を愛することを強制するのは、ちょっと違うんじゃないのって、僕は思います。大切なのはコツコツ個物を愛していくことです。そうすることにより、他の民族や国家の文化も同様に愛することができますし、人格を尊重することにもつながるのでしょう*6

しかし、今回、日本の航空幕僚長そのひとに触れてみて、杞憂だとは思いますが、田母神さんが、ひいては自衛隊が「挑発に遂に我慢しきれなく」なったり、「仕掛けた罠にはまり」そうだという危機感を抱いてしまいました。それだけに留まらず、日本人の中にそういう方がちらほら見受けられるのも危惧されます。一人一人が落ち着き、集団的な自我のいびつの渦を作らないことが平和のための必要条件でしょう。まずは自分の自我のいびつに自覚的になること、そしていびつの解消に努めることが重要だと現時点では考えています*7。このことはもちろん、日本人だけでなく他国民にも言えることでしょう。

*1:「発言内容にはおおむね賛成だが、その自我のあり様には反対だ」ということがコミュニケーションにおいては多々あります。

*2:実体験としてそう思います。

*3:一般論として、自我で引き受けられない場合に人はしばしば自己正当化や他者に対する非難に走ったり、あるいはあきらめる傾向があるように思います。例えば、2007年の久間前防衛大臣の「原爆しょうがない発言」は、ひとつには「掘り下げる地点(この場合、太平洋戦争終戦間近という状況)」の問題だといえるでしょう。久間さんの真意はわかりませんが、「しょうがない」というのが、もし、「当時の日米指導者の知性と心身のあり様ではあの状況において、あの選択をしてもしょうがないが、今の私ならもっとよい結果を導くことができる」という意味なら「当時の人間と比較して賢くなっている」という点では素晴らしいといえるでしょう。逆に、「今の私があの状況に直面しても同じ結果になる」という意味で、しかも、「では、その状況にならないためにどうすればいいのか」を掘り下げておらず、従って知恵を獲得できていないのであれば、あの発言は自身の知的敗北宣言(あきらめ)だとみなすことができるでしょう。もし後者だとすれば、日本人(しかも防衛のトップ)の論理性の欠如は未だに継続しているのかと多少げんなりしますね。ですが、掘り下げるのはとても難しいので、今できていなくても、「しょうがない」のかもしれません。「できたらすごい」という精神でより深く掘り下げることにチャレンジしていきたいものです。戦争の反省とは例えばこういうことだと私は思っています。

*4:鳥獣戯画はズバ抜けていると私は思います。こういうのを国の「宝」と言うのでしょう。これは自信を持って誇っていいでしょう。世界中の一人でも多くの人に愛してもらえるとうれしいです。

*5:文化遺産に限らず、もっと日常的な事柄、例えば、安心して街中を歩けるとか、経済的に裕福であるとか、大衆食堂や格安食品のクオリティーが高いとか、サービスや商品のクオリティーが高いとか、言論の自由が保障されているとか、武力によらない平和の構築を志向した活動が存在するとか、相対的に見て秀でているところはたくさんあるでしょうし、固有の自然環境と調和して生きていく態度をより大切にすれば、この点で世界の手本になることもできるでしょう。そういう精神態度の結晶が文化遺産と言えるのだと思っています。

*6:個物を注視せずに大文字の国家や組織を愛することを「強制」したり、同族意識固執して境界線を引きすぎる態度は、「雑」すぎると思うのです。これは過去に流行した古い考え方だと言えるでしょう。デメリットが大きすぎます。そうではなく、一人一人の人間や、一つ一つの物を「丁寧に」見ていくことにより、相互理解が深まり、ひいては平和につながるのでしょう。

*7:「傷」を「自分の意見」と勘違いしているケースがしばしば見られます。傷をしっかり治療することにより、さらに安全な社会が構築されていくのだと思われます。