意欲がないときの言動――意欲がない状態で無理やり文章を書くとこうなる

私は今

文章を書く意欲がほとんどない

でも書いてるじゃんってつっこみは受け付けない

ぶら下がりは受け付けないのである


意欲がないときにむりやり書く(表現する)ということは

どういう効果をもたらすのだろう

どういう意味があるのだろう


書かざるをえないような感情の嵐の渦中にあるわけでもないし

これはぜひとも言っとかないとっていうような内圧の高まった危機迫るものもない


今思った 

別にそれでもいいじゃんって 


ここでひとつ断っておく必要がある

私は普段関東弁のユーザーではない

別に違ってても使っていいじゃんって思うから使ってるだけだ

サンキューって言う日本人みたいなものだ


それはいいとして

そんな熱がこもってないユルーい文章を

ローギアでアクセル全開で無理やり法定速度で走ろうとするがごとく

あるいは

重油の海を必死で泳ぐがごとく書き進めていくうちに

ラッキーにも

ギアが切り替わるかもしれないし

筋力が強化されるかもしれない


もしそうなることがあるとすれば

書くということの個人的営みとしての意味のひとつはそれでいい


じゃあ

こういう文章を他者に見せることの意味ってなんだろう


こう考えたところで

ここまで書いたこの文章を他者目線で読む視点が立ち上がる

いわゆる私はあなたがたと違って自分を客観視できるんですってやつである


書くということに関心のあるひとの中にはおそらく

モチベーションのあがらないときどうすりゃいいのって悩みをもってるひともいるだろう

そういうひとにとってきっとここまでのこの文章は多少なりとも興味深いものだろう

とすれば

もし興味深いと思ってもらえたとすれば その時点で

この文章は注目を集め問題提起をしたという意味においては

見栄っ張りの高校生がセンター試験の自己採点をするくらいに甘く評価すれば

意味のあるものだということもできる


さらに

この文章の今後の展開としては

その悩みに対するひとつの答えになってりゃいうことなしだし

そうでなくとも ヒントや 反面教師になってるくらいでもいいのかもしれない

あるいは そうそうきついよねぇとか何もいえねぇとか

そういう共感や失笑が喚起されることもまた無駄ではないのかもしれない


ところがそうはいかない

ここでやめるのがベストと判断して

辞任するからである