左翼か右翼かそれともあれか

 四月某日

 京都は雨。

 我、友人宅にて、「デザート寝」なる単なる二度寝技を繰り出したりしつつ、だらだら過ごした。二度寝というとなんだかネガティヴな印象だけど、「デザート寝」と言うことにより、睡眠というフルコースの料理の総仕上げのようなポジティヴな印象に変化することに気づいた。言葉には力が宿るというのは本当のようで。よかったよかったまた気づいた。

 
 

 そんな贅沢な(だらけた)状態で、テレビに映る世界各地の聖火リレー中に衝突しているチベット擁護派と中国擁護派をぼんやり眺めていました。

 チベットに行ったことはないし 友人もいないし

 あまりくわしいことはわからないけれど

 あの立場、あの状況で笑うことのできるダライラマというひとだけが、デモをしているチベット派や中国派、テレビのコメンテーター、新聞記者や雑誌のライター、中国政府、日本政府、あらゆる人たちの中で、ひとりポツリとういているように見えました。もしこの問題に関してメディアに現れた登場人物を二つのカテゴリーにわけるのならば、ぼくは、チベット派と中国派ではなく、ダライラマさん一人だけのグループと、それ以外の方々というグルーピングをします。

 
 二者択一の「まじめな」ふんいきがぼくはきらいです。


「不謹慎なことが言えない状況や事柄」というのは

「不健康」の証なのでしょうか。

 

 この病にかかっているひとには 

 共感と笑いを処方してあげましょう
 
 そしてわたしがこの病にかかったときにはどうか皆様

 わたしに薬を!


 そんなことを思いつつ

 

 どういう話の流れからか、右翼か左翼か、どちらかというとどっちだろうというハナシに。

 むずかしい。なんとなく、どちらかというと左翼かな*1、とかノタマッタリしつつ・・・で、今朝起きたとき言葉が降ってきて少しスッキリ。


 たぶん、

 1.「右翼」とは、現状に対する自身の不満を「外国」や「国内反権力」に向け、大文字の「自国」を自分の「内」に取り込む人のことを言い、2.「左翼」とは、現状に対する不満を「国内権力」や「国外権力」など、権力全般あるいは多くの権力にに向け、「理想」を内に取り込む人を言うのだろう。さらに、3.現状にある程度満足しており、その自身の既得権益を維持するシステムを乱したりつぶしたりしようとする人を除去しようとする「保守」派がある。1と3は、しばしばまとめて「右翼」と呼ばれているが、それは、彼らが国内反権力」を潰すという同じ目的を有しているからだろう。目的は同じでも、根っこは違う。混同してはならない。

 以上、123はいずれも、自我の小さいエゴの人という意味で同一のカテゴリーに入れることができる。この平面から垂直に飛ぶカテゴリーとして、4.修養により自身の不満と折り合いをつけ、現状を受け入れた自我の大きな人の住む世界がある。さらに、この世界には5.修養されたうえで理想を志向する左翼もいるのだろうね。一口に人々の修養や思想といっても、それらは多様な程度とベクトルのグラデーションを描いているのだろうね。
重複していたり、ゆれうごいていたり、いろいろだろうね。一見4に見えて実は3を根っこに持っていたり、2と5の間をゆらいでいたり。

 ある人が、1から5のどれであるのか、あるいは6.オルタナティヴであるのかは、おそらく生い立に大きく左右される。どういう物語を吹き込まれてきたのか。どういう傷を負い、どういうことで賞罰を

 と

 あいかわらず個人言語全開でごちゃごちゃとうるさいわたくしですが

 ちょっと めんどくさくなってきましたので

 最近 ぼくの近辺でにわかにはやりつつある

 登りかけの山を ちゅうちょなく下山

 というワザを繰り出して 無理やり結論です。

 
 ぼくはぐちっているひとがそんなにきらいではないのです

 自分の感情に対して素直だと言う意味において
 
 しかしぐちにもいろんなしゅるいがありまして とはじめるとまたながくなるから下山

 一方で やせがまんをしているようなひともきらいではないのです

 一生懸命だという意味において

 そして おおきくやわらかいこころでできごとをうけいれられるじょうたいにあこがれます

 ここちよいし まわりにも幸福が伝播するとおもうから

 いまのところ ぼくはこのようないろんな状態をゆらぎながら生きているのであります

 合掌




*1:逆立ちしながら上にあがり、ほんの少し前傾姿勢を維持してみたい。