ある中年サラリーマンが静かに落とし穴に落ちていく話


以下のフィクションから学んでみようと思います。




男は三十五歳のサラリーマンである。三年前に結婚した妻、二歳の娘とともに、昨年郊外に構えた新居で暮らしている。多額の住宅ローン*1は、「計画通りに事が進めば」返済可能である。つまり、男は簡単には会社をやめられない状況にある。





男の仕事は中堅企業の技術職である。職務に忠実で、強い意欲と固い意志に満ち溢れている。仕事を通してスキルアップを図りたい。より一層の社会貢献を果たしたい。そう思う男は真面目*2なのである。

会社は昨年の不景気のあおりを受けて以来、自転車操業である。日が変わるまで毎日残業、上司から土日出勤を強要される。日々顔を合わせる職員の数は十数名。他者や他部署との交流は一切なく閉じた環境にある*3。職場の雰囲気は悪く殺伐としていて、利己的な人間が多い。派閥が形成され陰口の嵐。皆が仕事に追われ余裕のない状態でキレやすく冷たい*4。日常業務におけるノルマはきつく、部下からは愚痴、上司からは八つ当たりとパワハラの嵐で板ばさみの状況である。

男は職務上、難解な資格が必須の状況にあり、帰宅後も毎晩、睡眠時間を削って猛勉強をする。さらに、来月から予定されている長期海外出張のため、現地語の習得が必須の状況にある。



男は、静かにストレスが自身を蝕んでいくことに気づいていない。





激務は家庭を蝕む。家族関係は徐々に悪化し、やがて離婚を告げられる。娘を連れて妻は去り、一人身になった男の家事の負担は急増する。金銭的余裕がないため自分で弁当を作る。両親は亡くなっているし兄弟はいない。多忙のため友人に連絡をとる余裕がないし、皆が遠くに住んでいて簡単に会うこともできない。



しばらく経ち、男は体の左半分がなくなったたような感覚に襲われ、体が前に動かなくなる。喪失感と孤独と過労はさらに男を蝕み、ある日、男の頭は急に重くなり、動きが極端に鈍くなる*5





あらゆる作業がはかどらないが、一旦巻き込まれてしまった巨大な仕事の渦からはそう簡単に逃れられない。この段階で、男の認知は静かに変容しつつある。仕事は雪崩の如く押し寄せる。なんとか貢献したい。迷惑をかけたくない。男は無理やり頑張ろうとする。しかし、もはや単純作業すらままならない*6



罪悪感と苛立ちが男を苛む。





ほどなく精神的、肉体的疲労はピークに達する。ノルマ達成の焦りから、無理な仕事のプランを組む男。取るに足らないことで、常日頃から多くの職員と折り合いが悪くトラブルが絶えない社員と口論になる。男の精神は乱れ、さらなる焦りと苛立ちの中、注意散漫な状態で残業し、同時並行で多くの仕事を無理矢理こなす。





深夜、男は間近で機材の爆発を招き、目と顔を負傷する*7。失明の恐怖の中、男は救急車で病院へ搬入される。皮膚の爛れは治らないが、失明は免れる。



極度の肉体と精神の疲弊の中、男の認知は大きく変容し、会社に重大な迷惑をかけた、あらゆる事柄はすべて自分の責任であるという常軌を逸した過度の罪悪感に苛まれる*8





翌日、労災隠蔽*9がなされた後、上司が男を密室に呼び出す。

「我が社の仕事がうまくいっていないのはすべてお前のせいだ。お前のいない昔はうまくいっていた。会社をやめてもらう。お前が会社の雰囲気を悪くしている。お前のせいで自殺しかけたと部下が言っている。お前がやっていることはいじめだ。お前は人殺しだ。そんなことをしているから業績が上がらないんだ。」

上司は顔を真っ赤にして机を力一杯叩きながら大声で怒鳴り散らし続ける*10。極限状態の疲労と罪悪感の中、男は驚きと反省と理不尽を感じる。わずかに残っている理性を駆使して冷静に会社の現状に対する改善策を提言する。しかし、偏見に絡めとられた上司はもとより男の言葉を全く受け入れる気がない。思考力、指導力、人望の欠如。見たくない自身の弱点を指摘されたと感じた上司は、ますます感情的になって逆上し怒鳴り散らす*11。上司もノルマ達成の重圧に押し潰されそうで、余裕がないのである。男はしだいに話す気力を失う。自分が他人を自殺に追い込んだ。この言葉が認知の歪んだ男の精神を破壊する決定打となる。この言葉を疑うだけの思考力と支えきれるだけの気力が男には残っていない。男の目の前は真っ暗になり、巨大な理不尽と罪悪感が体を貫く。



この時点で、男の心身の状態はすでに意志でコントロールできる範疇をこえ、その後は一直線となる。





直後に、別の上司が男を呼び出し「失望した。」と告げる。前件について男が少し触れると「彼はそういう役割だ。」と腫れ物に触るように流される*12



体の隅々まで蹂躙(レイプ)*13されつくされたような無力感を覚え、冷たいものが男の体を突き抜ける。





その後、男は「社会というものは想像していたよりずっと恐ろしい。」*14とうわ言のように何度も繰り返しながら、数名の同僚に事情を説明する。同僚は理解を示すが、上司を恐れ消極的態度をとる*15。その後も無視と嫌味による上司の嫌がらせは続く*16





ある日、男は部下の自殺云々の件は事実ではないと部下本人から聞く。以前口論になった社員が上司に虚偽報告し、上司がその情報を無根拠に信じただけ*17だという線が急浮上する。



しかしもう遅い。男の脳はすでに破壊されている。扁桃体に深く刻まれた傷は彼を蝕んでいく。





その晩、男は自分の中に「もう一人の自分の体を動かす存在」がいることを知り、取り乱す。必死で飲み物を口にし、友人に電話して気を紛らわそうとするが、不幸にも電話はつながらない。そわそわとした落ち着きのない状況で、「もう一人の存在」が現れ突然ひらめく。名案は、これ以上の名案はないともう一人の男に確信させるだけの逃れ難い力強さを持っており、止めようのない強制力で男を突き動かす。ハラハラした明るい狂気のなか男は包丁に手を伸ばし・・





察するに、こういう状況において多くの場合、人間の認知は驚くべき変化を遂げるのだと思います。罠は静かに迫ってくる。はまってからではもう遅い。金縛りのような状態になり、逃げられなくなる場合もあるでしょう。気をつけたいものです。と言っても、「地震の本当の怖さは身をもって体験するまでわからない」ということはきっとあるのだと思います。身をもって知るまでは、どうしても慢心し、高をくくってしまうものだと思います。「自分は(彼らとは)違う」と根拠なき自信を持ってしまい、事態を過小評価してしまうのでしょう。現に私自身、地震対策を十分には講じておりません。

*1:負債のある状態というのは、真の意味での「経済的自立」ができていない被支配状態であるため、「思想的自立」を果たした人間が自身の倫理基準に従って行動するにあたっての障壁になることがあるでしょう。常にあるペース以上で走らざるを得なくなってしまうリスクが生じますし、「しょうがない」と言い聞かせながら、たとえ合法であっても社会的に好ましくないと自身の判断する産業に従事せざるを得ない状況に陥ってしまうことも時にはあるでしょう。十分に気をつけたいものです。

*2:意志で自分の体が制御できると思いすぎてしまうと、時に危ういでしょう。現代日本においては、一昔前に流行した「がんばる」「耐える」といった根性論に代表される単純明快なストラテジーの負の面が、しばしば社会的害悪として表出しているように思われます。人間の体の仕組みを良く知ることが重要です。

*3:外部の目の届かない環境ではしばしば常軌を逸したハラスメントや暴力が起こりやすいようです。例えば、小学校のクラス、自衛隊、大学の研究室、家庭などが、閉ざされやすく、要注意かもしれません。

*4:能力の足りない(あるいは足りないと主観的に思っている)個体はしばしば、媚を売ったり、非難の対象を見つけ出して攻撃したり、他者を落としいれたり、恐怖で押さえつけたり、いやがらせをしたり、情報を遮断することにより、自分の地位とプライドを守ろうとする傾向があるようです。上司が部下におこなうハラスメントの原因の一つにはそういうことがあるのでしょう。組織においてそういう個体がある割合を超えると、ポジティブフィードバックがかかり、著しく腐敗のスピードが増すようです。

*5:過度のストレスの中、予想外の方向から、同時に複数のダメージを受けると心身に異常を来たす確率が大幅に増大するようです。自分の安定がどういう要素により成り立っているのかを、できるだけ把握しておくことがまずは大切でしょう。酸素のように、そこにあるのがあたり前すぎて普段意識しないけれども、実際になくなった場合、決定的なダメージを負ってしまうものは無数にあると思うのです。

*6:認知が変容しつつある渦中において止まることは相当難しいのだと思われます。止まれなかった結果、最悪の事態を招いてしまうこともあるのでしょう。

*7:これらの一連のプロセスは悪循環の典型例でしょう。

*8:PTSDに代表される多大な精神的苦痛を受けた状況においては、自身の行為(あるいは物事)の善悪の適切な重み付けができなくなってしまうようです。

*9:起こってしまったことを直視し、学びに変えることを尊ぶ文化が形成されるとよりよいのでしょう。特に日本においては、「失敗」に対する成熟した文化の形成がなされていないと思われます。時間的、空間的に広く社会的合理性を冷静に考え行動できる視野の広い人間は今のところ少ないのかもしれません。

*10:人間はしばしば、よほど自覚的でないかぎり、自身が過去に受けた仕打ちを他者に対して繰り返してしまうようです。

*11:怒るときというのは、しばしば当人が気にしている痛い部分を突かれた時であるようです。あるいは暴力以外の方法で他者を自分の言いなりに出来ないときに、権力や恫喝により押さえつけようとすることがあるようです。ハラスメントの多くは、加害者の人間的未熟の反映と言えるでしょう。

*12:恐怖政治やモノカルチャー、資源の枯渇などにより組織が硬直化してくると、利己的な事なかれ主義の個体が増加する傾向にあるようです。これは個体レベルで見れば賢い生存戦略でしょう。こういう状況においては組織や他者に見切りをつけることも大切だと思われます。

*13:レイプの恐ろしい点の一つは、被害者が、被害の最中だけでなく、その後も長きにわたって脳内にこびり付いた架空の敵に支配され続けることにあるのでしょう。体中−指の先までくまなく−隅々まで加害者に陵辱されているような、そんな感覚に囚われるのかもしれません。その時の自身の意志でコントロールできないような暴力などにより、過度の苦痛や恐怖に遭遇した個体は、しばしば無力感や陵辱された屈辱、憤りに支配され続けるようです。

*14:社会や外界に対するある程度の安心感、信頼感が確保されてはじめて、人間は適応的な生活が送れるようになるのでしょう。

*15:上述したように、恐怖政治やモノカルチャー、資源の枯渇などにより組織が硬直化してくると、利己的な事なかれ主義の個体が増加する傾向にあるようです。これは個体レベルで見れば賢い生存戦略でしょう。こういう状況においては組織や他者に見切りをつけることも大切だと思われます。

*16:様々な他者にとってのよい指導者や教育者になるためには、自身が様々な経験をしていることが決定的に重要だと思われます。そういう人の場合、様々な生い立ちや経歴、状況の他者の心を察することができるとともに、個々に応じた育み方の引き出しをたくさん持っているため、対応できる人間の幅が広く、結果、大勢の人々とうまく折り合いをつけながら部下や生徒を育むことができるでしょう。逆に、引き出しが少ない人間は、しばしば「自身の知る範囲」から外れた他者に対して安直な差別意識を持ってしまったり、対応策がなく困惑してしまったり、虐げてしまったりすることがあるようです。何かがはじめから得意だということは、それを苦手な状態から得意に変えていく方法を知らないということですし、何かが苦手なまま克服できていない状態というのは、それを克服する方法を知らないということです。何か苦手だったことを克服した人は、始めからそれが得意な人の気持ちを知らないかもしれません。できることがそのままできないことにつながり、できないことがそのままできることにつながる。長所がそのまま欠点となり、欠点がそのまま長所になるということでしょう。実際には、一人の人間が多くの異なる体験をする(せざるをえない)ことは稀なため、様々な異なる体験をした他者が補い合うことが重要でしょう。組織において、同じような体験をした個体や、同じようなキャラクターの個体ばかりが集まってしまい、モノカルチャー化してしまうと、しばしば受け入れられる人間の範囲や仕事の範囲、危機の範囲が大幅に狭まり、機能不全に陥るようです。また、そういう似た者の多い風土においては、ささいな違いが目立つため、細かいことに関する差別意識が生まれやすいようです。システムに適度の多様性が必要な所以でしょう。

*17:人間にはしばしば、自身の受け入れたくない情報に対しては懐疑的になる傾向があり、逆に、自分の受け入れたい情報に対しては無批判に受け入れてしまう傾向があるようです。この話の場合、上司は「男」に対して以前から好意をもっていなかったことがバイアスとなり、虚偽報告を疑うことなく受け入れてしまったのでしょう。