いい作品


 シャガールが嫌いだ。

 
 けれど、いい作品だと思う。

 
 彼の作品を見ると、地震に遭遇した時のように、自分が信じて疑わなかったインフラが揺らぐ。とても不安な気持ちになる。

 
 だから嫌いだ。

 
 けれども、いや、だからこそ、魅力的だ。

 
 いい作品と好きな作品は、必ずしも一致しないと、最近思う。

 
 「ここで言う」いい作品とは、普段我々が日常生活を送る上で支障のないように、生々しい感性を覆ってくれている被膜を突き破って、突き刺さってくるものを言う。それが快に結び付いたとき、美しいと感じ、好きな作品となる。逆に、不快や不安、恐怖と結び付けば、嫌いな作品となる。今のところ、こういう仮説を持っている。してみると、嫌いというのも、誉め言葉の一つとなりうる。かといって、気持ち悪ければ、いい作品とも限らないから難しい。このあたりはまだ整理がついていない。

 
 しばしばギャラリーで、私から見れば気持悪いと感じる作品に出逢う。作者に聞いてみると、気持ち悪いものを意図して創っているわけではないと言う。このことから、以下の仮説が導かれる。すなわち、被膜を破るポテンシャルを持った作品が、ある人にとって、快となるのか不快となるのかは、各人の分流地点のかたちにより決まる相当きわどいものである。

 
 また、美しいと気持ち悪いが両立している作品も存在する。実際、上の見立てで考えると、同じ起源なのだから、両立しても不思議ではないし、むしろ、両立している場合のほうが多いとさえ思う。上流から流れてきて、両方に流れ込むこともあれば、堤防が決壊することもあるのかもしれない。無意識下では、「美しい」と「気持ち悪い」の49対51ぐらいのせめぎあいが行われていて、意識上で、その勝者のみにスポットライトが当たっている可能性がある。この綱引きの話は、たしか、河合隼雄さんが、別の文脈でおっしゃっていた。

 
 先日、樂吉左衛門の茶碗を見ていて、突き刺さってくる美の後ろに、深々と広がる気持悪さが存在することに気付いた。私で言うところの、「パンダ」がそこにいた。私は、パンダやオニグモ、サンタクロースが苦手だ。気持ち悪いから。危ないと感じるから。おそらく私は彼らの発する色を警戒色と認識している。警告色を感じる時というのは、命の危険に関わる時である。感情が深く揺り動かされているのだろう。文明に浸ることにより、忘れかけていた感情が喚起されるとき、我々は野生に帰り、生の充実を得るのかもしれない。つまり、「真面目」になれる。してみると、彼等は私にとって、いい作品なのかもしれない。

 
 では、被膜を突き破るとはどういうことか。それは、脳のホメオスタシス、つまり恒常性を大きく崩すことだという仮説を今のところ持っている。感受性が鋭いとは、ホメオスタシスが崩れやすいということであり、そのことが、自我をギリギリまで崩壊させることにつながる。極端な例として、ニーチェゴッホの場合、遺伝および環境との相互作用の結果獲得された感受性を用いて、自我を崩壊寸前までえぐり、そこから回復する過程において、良質のオブジェを産み落とした。彼らのように、芯までえぐりすぎると命の危険が伴う。実際、彼らはえぐりすぎて、というよりかは、えぐらざるを得ないかたちに変化していき発狂した。あるいは、キリストは、自我を崩壊させながら、人類愛の境地に達した。彼らこそ、ここでいう意味での本物のアーティストだと思う。芯までえぐることこそが、真のコミュニケーションにつながると思う。けれども危険だ。

 
 以上のような思索を、科学の言葉に置き換えてみたいと思う。検証してみたいと思う。けれども、別にそんなことはしなくてよいとも思うときもあるし、生きている間にはできないかもしれない。あるいはする価値がないかもしれないし、誰かがしてくれてもいい。役割分担すればいい。詩人やアーティスト、哲学者の「この文脈における」役割は、科学がまだ扱えない領域にあたりをつけることだろう。こういう役割に憧れる。一方で、経験主義的にコツコツ積み重ねる役割もステキだ。ものをつくる人、教育をする人、運転手さん、販売する人、経営する人、治安を守る人、サービスをする人、ホームランを打つ人、他にも様々な役割がある。全部に憧れる。それぞれが自分の仕事に誇りを持ち、スキルを磨き、役割分担をしながら協力して生きている。そんなヴィジョンがステキだ。最近は科学の人気が高すぎてその渦に飲まれそうになる。科学も一つの思想かもしれないし、方法論自体がどんどん変化していくものだと思う。一人一人、捉え方も違う。「科学」という変化しない何ものかがあると思わないほうが、おそらく得られるものが多い。人間に対してもも同じであろう。そういう視点も自分の中につくっておきたいけれど、しばしば流される。「もし、創造的に生きたいのなら」、固着させないほうがよい。自分の自我が必死で反発しようとする他者の思想から逃げずに飲み込んでこそ、視野が広がるし、感性が磨かれる。ところが、生き物の体は、ウイルスや思想などの異物の進入を必死で防ぐよう設計されている。皮膚や白血球と同様、脳の免疫機構もなかなか優秀である。無理に飲み込もうとすると、自我が危うくなる。思想の自由とはたいしたことを言ったものだと思う。無関心とか、安直な個性論に逃げずに、誠実をもって、様々な他者の思想と向かい合うのは、そうとうしんどいことだと思う。
 
 脱線したが、話を戻そう。

 
 美でも醜でも、何かを感じているうちはまだましだ。何も感じないというのが一番さみしい。けれども、そういう時もある。そういう時は、黙って自分を見つめ、受け入れてあげるとよい。人間は刻一刻揺らいでいる。極端な計画性や極端な教条主義は感性を殺す。一方で、無計画に揺らぎすぎても、今の世の中では生きていけない。
 
 
 夏目漱石は「草枕」の冒頭でこう言った。

 
 世に住むこと二十年にして、住むに甲斐ある世と知った。二十五年にして明暗は表裏の如く、日の当たる所には屹度影がさすと悟った。三十の今日はこう思うている。― 喜びの深きとき憂愈深く、楽しみの大いなる程苦しみも大きい。これを切り放そうとすると身が持てぬ。片付けようとすれば世が立たぬ。金は大事だ、大事なものが増えれば寝る間も心配だろう。恋はうれしい、嬉しい恋が積もれば、恋をせぬ昔がかえって恋しかろ。閣僚の肩は数百万人の足を支えている。背中には重い天下がおぶさっている。うまい物も食わねば惜しい。少し食えば飽き足らぬ。存分食えばあとが不愉快だ。・・・・・・ 

 
 何事もほどほどがいい。けれども、極端に陥ったならば陥ったで、それを引き受けて、懸命に生きる。人生のあらゆる瞬間が学習機会である。この認識に達しているときは怖いものはない。けれど、生き物は揺らぐものだから、不安になったり、誇大妄想に陥ったり、慈悲の人になったり、他者を見下したり、いろんな温度が私を駆け抜ける。あらゆる温度において、なるべく教条主義的にならずに、ただ自分を見つめるという方法を今のところ採っている。日本の仏教がよくやる方法論である。こうすることにより、偽善のこころはなくなっていき、罪深き人間とかいう思いはなくなる。これに関しては、後日改めて述べたい。

  • 福田正治『感じる情動・学ぶ感情 感情学序説』ナカニシヤ出版。最近この本を読みました。この本で提唱されている進化論的感情階層仮説に基づき上記の内省による考察を近々再構築してみようと思っています。上の文章では個々の情動や感情を表す語句の使われ方が非常に粗いと思われます。(2009/2/10)