世界でもっともオシャレな状態。
それは例えば
晴れた日に、うす緑と黄色と黄緑のまざった木を眺めているだけで、さわやかなメロディーと軽快なリズムが体を突き抜ける。
そんな
「所有せずしてオシャレをする」境地。
この状態において
木を所有したいとは思えない。
偉大だから。
それに、もう体の一部だから。
ただ、こういう出会いが今後もいろんな場所でありますようにと願う。
自然を感じて生きるという最高の芸術体験。
内なる最高のおしゃれにお金は一切かからない。
お礼をするのなら
おいしい空気とおひさまのひかり、たくさんの養分を吸収するじゃまをなるべくしないことだろう。
こういう境地にいるときには
所有というあり様は、その時点で避け難いダサさを内包しているように映る。
そんな自我の無限遠への拡散運動に浸りながらも
こどもたちが、手帳をもらうために、はしゃぎながらスタンプを集める姿を見ていると
所有を全否定できない気持ちになってくる。
そもそも、ボディーイメージというものがある時点で
所有という概念は意識上に芽生えてしまうのかもしれない。
己の肉体、己の肉体と同化した道具(車やペンなど)。
そういう意味では、木と目が結ばれるというのも、一つの所有なのかもしれない。