やわらか


やわらかをもって

きよらかをえる

 ぼくは、ぼくたちの祖先が磨き上げてくれた柔の精神という叡智が、にんげんにとっての宝物の一つであると信じてる。

 ぼくたちは、ヨーロッパが生んだ徹底的にロジックを詰めるという方法を受け入れ、鍛錬すると共に、重心を一歩後ろに下げて、受動的に世界を受け入れる柔の心も磨くといいんじゃないかな。

 ロジックだけでは限界があるし、感性だけでも限界がある。論理に長けているひと、感受性の鋭いひと、いろんなひとがいて、全体としてバランスがとれているのが、好ましい集団のありようだと思う。

 けんかの最も有効な解決法って、論理や倫理で以って正誤や善悪を語ることではなく、情に流されてしまうことでもなく、重心を己の中心に保ちながら、両方を抱きしめることにあるんじゃないかな。
 抱きしめるためには、まわりはふわふわで、かつ、体の中心を通る一本の細くて固い芯が必要だと思う。柔の心を会得したひとの「慎ましやか」とは、そういうものだという気がするなぁ。「聴ける」ということは、中心に鋼の芯があるからこそ、なすことのできる非常に懐の深い、やわらかな行為である。

 一方、主張の強いひとや、長いものに巻かれるだけで全く主張しないひとは、エビのように周りを固くすることにより、必死で内部のもろい部分を守ろうとしているんじゃないかな。

 もし、きみが柔のひとになりたいのなら、直ちにエビがいけないという思考のプロットをたどるのではなく、まずはそういう自分のかたちとそこに至った経緯を、目をそらさずに見つめることからはじめるといいと思う。自覚が自在を生むから。

 もちろん、目をそらしてしまうエビもたくさんいるほうがいいし、あきれ返るぐらいのファンダメンタリストがいてもいい。いろいろいるのがおもしろい。

みなさん。

ぼくたちの先輩たちが培ってくれた柔のココロを大切にしましょう。