例えば、桶狭間の戦いや元寇のことを、根にもって、感情的に語る日本のヒトに、僕はお目にかかったことがないし、秀吉の朝鮮出兵を本気で怒っている朝鮮のヒトを見たこともない。
しかし、帝国主義の風が吹き荒れた19、20世紀の戦争や暴力、あるいは現在進行形のテロや、イラク戦争については、感情的になるヒトを国籍問わずよく見かける。
なぜ一方は冷静に見つめられて、他方では感情的になるのか。
以下の二つの観点で適当に脱線しながら、半分冗談で考えてみた。
1. 自身の生存が危ぶまれる状況において、ヒトは感情的になる。場合によっては、過去の被害体験は付加的あるいは口実として使われているにすぎない。
2.精神分析の一領域である「対象関係論」的立場から。現代の攻撃的な国家は、見かけは大人でも自我が未分化な「妄想分裂ポジション」にある。
まずは1番目。一つの見方として、後者において感情的になるのは、「親密度が高いから」だろう。ここでいう「親密度」とは、どれだけ深い仲か、知り合いか、自分に近いか、というような意味である。この親密度は時間に依存して小さくなる。おそらく、初期親密度が低いほど、減少の勾配は急になる。また、事件のインパクトが大きい場合には、時間に対する減少勾配は小さくなる。
例えば、幼稚園の時にされたひどいことを、おじいさんになって怒っているヒトはあまり見かけない。この場合、当事者が被害者だから、親密度は最も高く、事件からあまり時間のたっていない幼少時は感情が大きく動くことになる。ただ、時間がたつことにより感情の揺れが治まったといえる。つまり「過去の自分」に対する親密度が低くなった。
あるいは、地球の裏側で、全く知らないブラジルのヒトが殺された。これを、自分の身内が殺されたのと同じように悲しむことのできるヒトはそうはいないだろう。後者は、親密度が高いから感情的になるのである。ある事件が、何世代にも渡って伝えられる時、時間的にも遠ざかるし、親密度も下がっていくことになる。
小さい時に、たびたび両親にバットで殴られていたヒトは、大きくなってもそう簡単には傷は癒えないだろうけど、たびたび兄弟げんかしていたヒトは、ある程度は忘れてしまうだろう。これは、事件のインパクトの大きさが異なるからである。
では、なぜ親密度が高いと感情的になり、時間がたつと治まってくるのか。
自身の経験を振り返ってみると、感情的にならずに、あるものごとを離して眺められる時は、そのことが今の自分に直接関係していなくて、生存に余裕のあるときである。逆にいうと、生死のかかったところでは、ヒトは感情的になりがちだと言えるかもしれない。親密度が高いということは、直接あるいは間接的に自分の損得、あるいは生死に直結するということでもある。
互いに感情むき出しで、相手が悪と言い合っている今の各国(各人)の状況は、まさに生死をかけた戦い、エサやエネルギーの奪い合いの渦中なのだろう。領土問題なんかもそういう観点で見ることもできる。現代人は、普段直接狩りをせず、お金という信用手形で考えるから、ピンとこないだけで、近年の中国を始めとする爆発的な人口の増加、今後予想される世界人口の増加を考えると、一人が一食で口にできるごはん粒の数は、数粒ぐらいか、それ以下かもしれない。そうなったらみんな奪い合うだろう。今の感情的な態度は、そういう生存競争の表れと見ることもできる。エサ獲得のためのジョーカーとして、昔の戦争や侵略を持ち出しているという見方も可能だ。当人が自覚しているかどうかは別として。国と国がやっているというよりかは、自分が奪い合っていると自覚したほうがよいかもしれない。そういう感受性が生き物には必要だと思う。悠長に戦争反対と言って善人面しておきながら、贅沢しているヒトを見ると、吐き気がするほどの欺瞞を感じる。
なお、エサが一部にだけ大量に集まっていて、大多数がごはん一粒という状況になったとき何が起こるか。その一つが、革命だろう。エサが不足して、格差が広がりすぎるとシステムが転覆する恐れが出てくるかもしれない。
頭の使いどころだろう。
次に2番目。
白か黒か、善か悪か、という二分法的なものの見方は、幼児的な思考方法だと、よく言われる。以下、岡田尊司『人格障害の時代』より、かいつまんで紹介する。本書によると、上の思考方法を、精神分析の一領域である対象関係論では、「妄想・分裂ポジション」と言い、乳児期において、自分の思い通りにならない時、それを周囲のせいにして、欲望を満たしてくれない周囲を悪者とみなし、悪者に対して敵対したり、反撃を加えようとする状態をいう。
その後、失敗したり叱られて、塞ぎ込み、自分の無力や非を認めて、落ち込んでいる状態になる。これを「抑うつポジション」という。
この状態を経由して、自我が強化され、共感することを学び、自分にとって都合の悪い部分も良い部分も受け止められるようになると、より統合された「全体対象関係」に発展する。
ところが、抑うつポジションに陥ることは、大きな精神的苦痛を伴う。そこで、抑うつポジションに耐えうる自我の力がない場合、幼く、非現実な万能感を抱くことで、自らの無力さ、後悔に打ちひしがれることから、自分を守るのである。これを「躁的防衛」という。躁的防衛は、否認や回避として働く場合もあるし、支配感、征服感、軽蔑などの特徴が挙げられる。
成長の過程において、虐待や過保護など、なんらかの理由で、全体対象関係に達することができなかった場合、人格障害となる。本書では10通りの人格障害についての興味深い記述があるが、ここでは割愛する。以上、岡田尊司『人格障害の時代』平凡社新書、2004 より。
この見立てを、国家に適用してみると、互いに感情むき出しで、相手が悪と言い合っている今の各国(各人)の状況は、まさに、妄想分裂ポジションである。
例えば、アメリカ合衆国は建国から230年程度しか経っていない、極めて幼い国家である。叱ってくれる親もいない。力を持っているから思い通りになる。まだまだ、自我が未分化な段階なのかもしれない。
『人格障害の時代』によると、叱り役がいないことで、自己愛が肥大化した「自己愛性人格障害」の場合、自分は特別であるので何をしても許されるし、自分は優れているので賞賛されるべきだと考えている。賞賛や特別扱いの求め方も、とても傲慢で、当然のごとく要求する。見下した眼差しで、自分の優位性を印象付けようとする。彼を非難するものは、無能呼ばわりされて、切り捨てられる。他人はその利用価値だけで測られる。一方で、スランプや落ち目に弱い。自分の衰えを自覚すると、信仰に救いを求めたり、体を鍛え始めたりする。とのことである。
みなさんはこれを聞いてどう思われますか。もしそうだとすれば、「自由」の国を追従しすぎるのも危ないけれど、安易に逆らうわけにもいかない。難しい。
では、他の一見長い歴史のありそうな国家がなぜ妄想分裂ポジションなのか。おそらく、自己愛を深く傷つけられたことにより、人格障害に陥り、歴史が断絶してしまっているためであろう。つまり、過去の自分を直視するプロセスを踏めていない(自分を見つめることができていない) 。歴史を長いタイムスパンに渡って、自分の立場で、相手の立場で、第三者の目で、眺められるようになったときにはじめて解決する。日本は、抑うつポジション、躁的防衛、妄想分裂ポジションを行ったり来たりしているのではないか。
歴史はつながらなくてはならない。
つながれば、安心が生まれる。
ヨーロッパ諸国の安定感と大人の雰囲気は、長い歴史が無理なくつながっていることによるのではないか。
飛んでいるボールの写真を見ただけでは、飛んでいく方向、速度、どこから飛んできてどこへ向かうのか、ほとんどわからない。
それが動画であれば、多くの情報を得ることができる。それも、長いタイムスパンに渡る、複数の視点の動画であるほうが好ましい。
これは、なにも戦争や侵略に限ったことではない。
一人一人の人生における、あるいは、ある国の歴史における、様々なつらかったこと、恥ずかしかったこと、怒り、それらから目をそむけずに、直視して、いろんな視点から、離して眺められるようになったとき、コンプレックスから解放される。その時はじめて歴史がつながる。 明治から140年、急激に国の形を変えてきた日本は、一度落ち着いて、最低限、縄文時代ぐらいから自分を見つめなければならない。
現象として、数十年たっても感情的になっているヒトが多いという事実を見つめると、巨大な暴力がそのヒトの、あるいは、その国家のパーソナリティーに与える影響は、計り知れないといえるだろう。一度刻み込まれると、親から子へ、何世代にも渡って伝播する。傷が深ければ深いほど、容易には解消しない。そう考えると、自分の個性とは、自分の先祖の生命が誕生してから今までの、無数の感情や体験の刻印といえるだろう。国民性とは、あるカテゴリーで共有された感情の蓄積といえるだろう。
最後にもう一度まとめておく。
わがままな状態から、意見の異なる他者を受け入れられる全体対象関係に至るには、思い通りにならない他者に出会い、抑うつポジションを乗り越える必要がある。
コンプレックスから解放されるには、いつかは、各人が、国家が、自分の、自国の、世界の成育史を直視する必要がある。
人類の象徴として、「共感の女神」を建立する日は来るのだろうか。
しかし、共感のみに囚われていては、等身大の人間像ではないだろうから、すべてを直視することにより、偶像は消滅させて、「見えない透明な真球」へと昇華させるほうがよいかもしれない。
人間の性質の何かをアウトソーシングすると、人間の中にゆがみを生むことになる。
そんな気がする。
なんとなく思った。
世界の人口が爆発的に増加している中、少子化傾向の日本は、生存競争に敗れつつあるといえるかもしれない。長寿国というのも、世代の代謝が悪いという意味では、環境適応性が悪く、種の保存に適さないといえるかもしれない。ただ、生存競争というパラダイムから逃れ得ないとは言い切れない。生存競争という見方は、一つの観点に過ぎない。生存競争と、何かと、何かと、何かと・・・を寄せ集めたところに、少しは生きやすい世界があるのかもしれない。
今の日本を見ていると
なんだか ひぐらしの声が聞こえてきて
切ない
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