大阪人は真剣な時でも面白い!


 
 大阪市が 釜ヶ崎労働者(日雇いとかの仕事をしていて留守にしがちなひとたち)の住民票を 削除しようとしているらしい。

 先日 そのことに対する抗議のスピーチを たまたま市役所前で聴いた。
 
 さすが 大阪。しゃべりが面白くて プロかと思った。

 「納豆10個 混ぜたくらいに 粘りましょ!!」
 
 ノリノリでした。

 なんとなく 思ったことを書いておく。
 
 「定住生活をしていなくても、なんらかの労働力を提供しているのなら、(法律にのっとたうえで)税金をほとんど納めていなくても、、行政サービスを受けられる。それぐらいの余裕はあるほうが、システムとして好ましいんじゃないかな。医療費全額負担、免許没収、選挙権なしってのは、ひどいんじゃないかい。」

  「今の生活保護などの制度は甘い それにつけこんで 楽して生きようとするやつがいる。それで がんばって税金たくさん納めているひとたちが十分なサービスを受けられないのはおかしい。財政もカツカツなんだから。生物は必ず 制度の穴をついて 何でもありで 生き延びようとする。そんなけしからんやつは 罰しなければいけない。それで死んでもしかたがない。おれは知らん。」
 
 とりあえず 異なる主張の二人を演じてみた。他にも 人の数だけ 主張はあるだろう。

 皆さんは どう思われますか。

 たぶん 大阪市は 財政がきついから 予算のうちの 生活保護とか 失業保険などなどの分を 削りたいんだろう。余裕があるのに 上のようなことをするわけないだろうから。

 たとえが悪いかもしれないけど 毎日生活費200円ですごせって言われて カツカツであせりまくって 何を削ろうってなったとき 野に放つと十中八九死んでしまう赤ちゃんかペットのごはん代をなしにして 死んでいくのを見守るかんじかな。やつらはどうせ金もろくに稼がないし払わないんだから 足をひっぱるだけだから。って言いながら。
 
 あるいは毎日の生活費自体は2000円ぐらいあるんだけど、ジャイアンにおごったり 欲しいものもあるし それは削れない。じゃあ あかちゃんかペットのごはん代を削るか。こんな感じかもしれない。

 気になるようなら 大阪市のホームページを見てほしい。
 
 こういうのは 難しい問題だと思う。

 ただ 僕は 最近の なんでもかんでも自己責任という トレンドには あまり気持ちのいいものを感じない。なぜなら ゆがんだ見方だと思うから。
 
 あんまり そっちに偏りすぎると キリストが生まれてしまう。今は そういう時代にさしかかっているのかもしれない。
 
 たぶん当時は、例えば、 

 レイプされるやつが悪い 自己責任だ。他の生き物も みんなそういう熾烈な生存競争をしてるんだ。
 
 っていう意見(行動)が支配的だったんじゃないか。今と昔 どちらがいいか あるいは なにかalternativeなシステムがいいのか それは各々が考えればよい。世の中が極端になったとき それを埋め合わせる極端が現れる。そういう経緯で愛は説かれた という仮説を 今のところもっている。

 人類愛とは あらゆる他者をヘビのように丸飲みする 命懸けの共感である。
 
 僕は みんなで少しずつお金を出しあって 少数の困っているひとを助ける 保険というコンセプト自体は たとえ今のシステムを改良する余地が 大いにあるとしても すばらしいと思う。よく 思いついた。思いついた人は賢いと思う。
 
 例えば 難病にかかった場合 需要の少ない 合成にコストのかかる薬は 驚くほど高いだろうし 入院費とあわせて 月々軽く百万円を越してくるだろう。そんなとき 保険というシステムがなければ 普通の家庭は 路頭に迷う。カンパなどの方法もあるだろうけど コンセプトは同じである。
 
 世の中には そのシステムのおかげで 救われた 本人や家族が たくさんいるだろう。

 保険とは 偶然を統計に変える魔法である。

 皆さんは このシステムについて どう思われますか。
 
 少し前に 日本人は他の国々のヒトに比べて だまされやすいと聞いた時
 
 おじいさん おばあさんが 振り込め詐欺によくひっかかる と聞いた時 

 胸が痛むと共に うれしく思った。
 
 だまされるヒトが多いということは それだけ日本人が ヒトを信頼しているということだから。それだけ 日本は大人なシステムを構築できていた。

 「詐欺」や「不正」というものは おそらくゼロにはならない。そんななかでも おそらく バランスは調節可能で 
 
 ”圧倒的多数が信頼しあう中で 少数の詐欺被害者を多数でフォローする。”
 
 ”一人一人が身構えて 自分が被害にあえば それは自分の責任。だまされる者が悪い。”
 
 どっちがいいだろう。もちろん 第三 第四の選択肢もあるだろう。

 あるいは こうも言い換えられる。
 
 ”全員銃を持たないことにより 身を守る。一部の認められた者だけが持つ。”

 ”一人一人が銃を持って 自分の身は自分で守る。”
 
 日本とアメリカ どちらがいいか オルタナティブがいいか それは各々が考えればよい。しかし より本質的には どういう歴史的経緯で どういう因子が絡み合って 両国がそういうシステムに至ったのか 様々な観点から これを知ることが大切だ。そう簡単にできることではないけれど 構造を知ることで 今後の方針が見えてくる。
 
 なんにせよ 優しさを完全になくす方向には人間は進化しないと 僕は今のところ考えている。むしろ 数百年、数千年後には 今とは比べ物にならないぐらい 繊細なコミュニケーションが要求されることになっている。漠然とそう思う。今は罰せられていない多くのことが 未来においては犯罪になる。脳を肥大化させることで生き延びてきた生物の性だろう。暴力はよくない っていう偏見をここまで極端に 長年にわたって押し出してる生物って他にいるのだろうか。意識をもってしまったから 暴力を恐れることができる。暴力の可能性を想像することができる。今は科学が未発達だから 体に外傷を加えたり はっきりした言葉として他人を侮辱したりしない限り罪にはならない。よくわからないから 精神 と呼んでいる。精神病と言ったり 精神的にまいった とか言う。脳という体の一部分に損傷を与える行為のほとんどは 罪にはならない。他人の顔を殴るのも 脳を傷つけるのも 胃を荒らすのも 同じといえば 同じである。コミュニケーションとは 何らかの形で相手の脳を傷つける(影響を与える)ことである。今後 この科学の進歩による脳の理解に加え おそらく コミュニケーションの頻度と質の向上をインターネットの進化が助長する。最初に 未来には より繊細なコミュニケーションをとるようになるといったのは こういうことによる。

 皆さんは どんな未来を思い描きますか。
 
 話は飛ぶ。
 
 欧米人のように ハイ!ハイ!って積極的なのがいい 

 今の人間はそういうふうに 洗脳されているけど 慎ましやかもたまにはいいものだと 僕は 思う。時には イノシシみたいに前に出るだけじゃなく 引いてみる。
 
 優しいとは 自分が少し死ぬことである。
 
 少し死ぬということが 具体的にどういうことかは 各々が考えればよい。
 
 いじめ問題で テレビなんかで 

 死なないで 
 
 と言ってるヒトをみると それはそれでいいんだけど 

 みんな少し死ね 

 と言うほうが 的を射ていると 正直思う。数億人単位でみんなが少しずつ死ぬことで ある程度解決される そんな気がする。
 
 なんにせよ 今の日本 あるいは世界は余裕がなさすぎる。余裕がないと 心が狭くなる。自己責任と言い出して 他人を攻撃し始める。自殺や殺人、精神疾患などの内部崩壊を招く。戦争という可視化された大量殺人を目の当たりにしたトラウマの副産物だろう(戦争を肯定しているわけではない)。地球全体における エサ(エネルギーと言ってもいいかもしれない)の数と分布に対する 人間の数と分布の問題によるところが大きい。今のところそう思っている。生物は 代謝という エサを体内に取り入れて 排泄するというサイクルを 自発的に繰り返すよう 設計されている。一つの観点として ここに基礎をおき 考えると わかりやすい(この生物個体の仕組み自体を変えるという選択肢もあるのかもしれないがここでは議論しない)。

 例えば エサのとりやすい狩場には 多くの生き物が殺到し 競争率は高まる。
 逆に エベレストのような 生存に適しない環境においては 競争は少ない代わりに 環境との闘いが待っている。
 人間にとっての狩場というのは 必ずしも物理的な地理環境をいうわけではない。新しいビジネスというのは新しい狩場だし 誰も思いつかない理論というのも そうだろう。それらを ニッチという。

 エサの数を増やす。あるいは、人間の数を減らすという選択肢もある。しかし ここで気をつけなくてはならないことがある。人間だけ見ていては 誤るということである。広く全体を見ないで単純にことを運ぶと 環境破壊を始めとした容易に回復しがたい傷を負うことになる。結局 人間自らの首を絞めることになる。そのことに気づいたのが 20世紀であった。

 もう一つ、エサ(エネルギー)の分配を変えるという方法もある。簡単に言えば、大金持ちから没収して、貧しいものに配るということである。没収と言うと物騒だが、貨幣システム、政治システムを最適化するといえばよかろうか。

 なんにせよ、動かせないものと動かせるものを見極めて、どういう大構造がどういう小構造を招くのかを掴む。そして、その中から何を選択するのかは、各々が考えればよい。

 とにかく 早急にソリューションを見つけたい。あるいは 誰かが見つけてくれてもよい。

 長くしゃべりすぎた。

 よくわからなくなってきたから バカ話は このへんでやめておく。