人間を押す

10代のある時をきっかけに、人前で話すと鼓動が尋常じゃないほど速くなり、呼吸が乱れ、指先は氷のごとく冷たくなり、体や声が震えだしたりパニックになったりするようになった。正確には、人前で話すと決まった瞬間から、それらの症状の一部が発症するようになった。

それ以来、そういうシチュエーションを避けるようになった。

今振り返ると、その結果生じた学習機会の喪失は甚大であったし、ずいぶん足踏みや回り道をすることにもなった。

ある時、心の支えを得て以来、向学心が忌避行動をわずかに上回るようになった。

その結果、たくさんの恥をかきながら、時には後退しつつも、一歩ずつ前進できるようになった。


支えを失ったとき、体が半分になったように感じられた。けっして比喩ではなく、明確なる身体感覚としてそれは感じられた。

同時にいろいろなことが起きた。

ソーシャルスキルの低さも相まって、自分の意志では対処しがたい事態に陥り、遂に一度死んだ。

カウンセラーや両親、友人の助けを得つつ、人格を練り直した。

意志というものの万能性を信じることを止めた。

智慧を駆使して先手を打ち、自身の行動を意志の範疇に収めることができてはじめて大人なのだと思うに至った。


たとえば、僕は今この瞬間、浮気をしたくないと思っている。

性欲に駆られて浮気の欲求が生じることはあると思うけれども、同時に、思いやりの心がそれを阻む。

妻や子、あるいは相手の周囲にいる人たちの心に思いを馳せると限りなく胸が痛む。

長期的な人生設計やリスク評価を加味した理性的な判断により、回避したいという思いも、もちろんある。

「今」の僕はそう思う。

ところが、状況次第では浮気の衝動と回避の思いのバランスが逆転しうる。

それは時として意志の力では如何ともし難い。

この例で言えば、いかなる状況に陥れば逆転が起こるのかを熟知し、そうならないよう先手を打って自身および周囲の環境をプロデュースできる人を大人というのだと、僕は思う。



話を戻す。



長期の休養期間を経て、なんとか日常生活が送れるようになった。

命の重さに相当する教訓を携え、時には停滞し、あるいは後退しつつも、着実に前進し、最近ようやく落ち着いて話せるようになった。

そして遂に、どちらかというと話すのが楽しみだと思えるところまできた。

社会的にはほんの些細なことなのだけれど、個人史的には大いなる達成である。

トラウマやコンプレックスから逃げ続けずに、じっくりと、時には足踏みをしたり、一休みをしたり、あるいは後退をすることがあってもよいから、必ず克服するという強い意志を持ち続けることのできる人こそが大器晩成タイプなのだと最近思う。

ぼくが大器かどうかはどうでもいいけれど、晩成である、つまり、今後ののびしろが大いにあるとは思っている。

小さな器でもよいから、美しいものに仕上げたい。

克服にあたっては、夏目漱石芥川龍之介に送った書簡の文面がおおいに励みになった。

あせつては不可せん。頭を惡くしては不可せん。根氣づくでお出でなさい。世の中は根氣の前に頭を下げる事を知つてゐますが、火花の前には一瞬の記憶しか與へて呉れません。うんうん死ぬ迄押すのです。それ丈です。决して相手を拵らへてそれを押しちや不可せん。相手はいくらでも後から後からと出て來ます。さうして吾々を惱ませます。牛は超然として押して行くのです。何を押すかと聞くなら申します。人間を押すのです。文士を押すのではありません。
 是から湯に入ります。
     八月二十四日                 夏目金之助
   芥川 龍之介 樣

http://www.geocities.jp/sybrma/202sousekinotegami.htmlより引用

着実に人間を押していきたい。

漱石書簡集 (岩波文庫)

漱石書簡集 (岩波文庫)