環境と頭をほどよく変える――ポスト経済成長原理主義時代の生き方

ほとんど書く意欲のない状態で、浮かんでくるものをとりとめもなく書き留めてみることにする。

ということは当然、ここでは理路整然とした主張がなされるわけではないのだろうけれど*1、一方で、こうすることのメリットもあると思うのである。つまり、半分寝たような状態で書かれた文章は、現在私が置かれている状況、接している事物から受けているストレスをより如実に反映したものになる可能性が高いと思われる。己の内から半ば無意識のうちに出てきたものを書きながら意識化することにより、自分がどうしてそういう考えをするに至ったのか、その背景にどういう状況が存在するのかについて分析し、よって今後の糧にしようと思うのである。


落ち着くことの効用


最近、「100年に一度の経済危機」とかいう、映画のキャッチコピーでよく見かけるようなかっこいいフレーズをしばしば耳にする。「10年に一度の逸材」などの、スポーツを盛り上げる際に絶大な効果を発揮するフレーズと同類なのかもしれない。今回の「100年に一度の経済危機」がこのパターンに該当するのかどうかは知らないが、大げさにアナウンスすることが必ずしも悪いこととは限らない。修辞法の一つとして面白いし、そうとわかって接している限りにおいては問題ないだろう。

いつの時代においても、時代特有の問題があるのだろう。特別でない時代というものがあるとすれば、それはいつを指すのだろう。歴史上全く同じ状況は一度たりとも存在しないだろうし、似ていたとしても無数のファクターのうちのごく一部だろう。人為および天為により生みだされた様々な環境の変化に応じて、慣れないことをし続け、その結果新たに生じた慣れない環境に対する適応技術を模索し、再び慣れないことにチャレンジする。このように延々と慣れないことをし続け、なんらかの問題と向かい合い続けるのが生き物、とりわけ人間の生の実際だろう*2。この意味では、もし本当に案件が「100年に一度」なのであれば、それは過去に経験した少なくとも一つの部分的に一致する前例があるわけで、その対応は「はじめて」に比べれば容易だろうし、いつもどおり、はじめてのことなのであれば、いつもどおり時代特有の問題に向かい合えばよい。

正直に申し上げると、私の周りでは不況(本当にそうだとして)のあおりを受けていると思われる人は皆無である。ガソリンはメチャクチャ安くなっている。これは大変喜ばしい。食料価格もたいして変化していない。給料もそんなに変わらない。私の周りには、今の日本の経済水準で比較した場合に、特別贅沢な暮らしをしていた人はもともといないと思われるが、その私の周りの方々の生活水準はほとんど変化していない。では何が変わったのか。メディアが経済危機の件に関してよく騒ぐようになった*3。その結果、悲観的なビジョンを持つ人が増えた気がする。私から見えるリアルな風景の実際はこのようなものである*4


以上の文章が、私の現在受けているストレスを反映しているのだとすれば、その多くは、テレビや新聞、周囲の人々に由来するようである。つまり私は最近そういう環境で暮らしているということだろう。これらの刺激により、私は主観的には「100年に一度の経済危機」と謳われたいびつにして巨大な主体の所在が明確でない渦の存在をばくぜんと感じていて、ここではその渦を少しでも緩和しようとし、また、過大評価あるいは過小評価しすぎることのないよう自戒している。つまり、危機であろうがなかろうが、基本姿勢として「動じるな」「取り乱すな」と、(特に自分自身に対して)言っているのにすぎないだろう。なぜそう言いたいのだろう。乱れがちな周囲および自身のバランスを整えようとする精神運動の現れだろう。整った有り様になることにより、落ち着いて状況の認識、判断、行動をすることができるようになり、結果、物事がよりうまくいくことが多いと経験的に思う。ということで、ここまでにおいては、額縁についての話しかなされていないし、仮に課題が生じているとして、その具体的解決法が述べられているわけではない。

経済成長原理主義について――観察事実を直視することが重要

環境問題が優先順位の極めて高い重要課題だと言うのなら特に、要らないものを無理に作って売る必要はないだろう。特に今の日本の場合、さらなる経済成長をする必要があるのか甚だ疑問である。「経済成長原理主義」は誰によりなぜ信奉されているのだろう。終戦直後からバブルにかけて、訳あって特に信奉された一過性のイデオロギーの単なる惰性によるものだろうか。もしそうだとすれば、当時と今の状況は全く異なるのだから、時代に応じた新たな考え方が必要となる。文化、知識、技術、外交などの質的な面では大いに努力し、向上すればよいだろうけれど、量的拡大の必要性の根拠が釈然としない。むしろ、南北問題、環境問題、エネルギー問題、ワークシェアリングによる過労の防止と暮らしの充実などの観点からみると、今回の経済危機は喜んでしかるべきだと思う。消費が冷え込むということは、労せずしてエネルギー消費が抑制されるということである。このことを喜ぶのかと思いきや、今度は物を消費しようと叫ぶのでは全く一貫性がない。人間はしばしば、言語による惰性の効果により、必ずしも自然の振る舞いにそぐわない理論に現実を当てはめようとしてしまう。その時代に採用されている(あるいは、自分の採用している)思考フレームの中で、「こうすればこうなる『はず』」という思考方法(理論)に縛られてしまう。今回の経済危機は、自然が「あなたがたの概念世界は現実にそぐわないですよ」と教えてくれているのではないだろうか。当然ながら現在の資本主義というフレームもまた、これまでの他のイデオロギーがそうであったように、人類史においては一過性の流行にすぎないだろう。科学全盛の現代において、もし科学的精神を尊重するというのなら、まずは観察事実を直視することが重要である。惨事を回避するためには「遅れずについていくこと」が不可欠だろう。遅れた結果が流血につながるということはきっとある。

システム構成要素の流動性について

また、要らないところに人を囲い込んでおく必要もない。もちろん「健康で文化的な最低限度の生活」が維持されるための社会福祉や、労働条件・待遇の改善は必要だとしても、労働力は必要なところに柔軟に配分されるのが好ましいだろう。もしそうだとすれば、大きな組織の場合には、機動力に欠けるという弱点があるだろうから、それらに対し柔軟かつスピーディーな商売の有り様の変更を期待するのは無理がある。一つの大きな組織にしがみついて一生を乗り切ろうとする生存戦略は、現代においても依然有効であることは事実だろうけれど、一方で、めまぐるしくイノベーションが起こる現代においては、これまでのスローな時代と比較したとき必ずしも有効でないケースが増加しつつあると思われる。個人や小規模な組織のメリットの一つは、柔軟性とすばやさにあるのだろう*5。だから、個人レベルにおいては、一過性の価値観をできるだけすばやく見抜き、それらからできるだけすばやく自由になったほうが断然生きやすくなると私は思う。このことも、「惨事を回避するために遅れずについていくこと」の一環である。


状況に対応して生まれる生存戦略(思想、宗教など)について

このところ、ある生存戦略(哲学、諸科学、宗教、思想、倫理、道徳など)の発生および存続と、それらの存続を支えた環境、体制との相関に興味がある。キリスト教が生まれ、生き残り続けたのは、あのような社会形態に自我を適応させる必要があったからだろうし*6イスラム教、仏教、儒教もまたしかりだろう。構造主義というのも、人間が異とコンタクトした際に示す普遍的な作用の一つである「受容」として理解できるのだろう。いわば、より広い範囲で通用する「ことわざづくり」だろう。異とのファーストコンタクトで頻繁に見られる「反発」からたどる経路は主に「排除(攻撃)」「受容」「逃走」の三つだろう。もちろん三つの対応それぞれに様々なパターンがあるだろうし、各事例に特有の過去の履歴がある。それら諸条件を反映した思想や宗教、倫理が生まれるのだろう*7


ここまでの文章はおそらく、その価値の有無はともかくとして、時代状況に適した考え方を生み出そうとする精神運動の一つなのでしょう。つまり、状況に応じて頭(固定観念)を変えましょうと言っている。とは言っても、環境に対して服従しすぎて頭(観念)を変えることにのみ囚われるのは危ういのだろうし、頭を変えることなく環境にのみ原因を求めるのもまた危ういのだろう。環境と頭をほどよく変えるのがよいのだろうけれど、適切なバランスを把握することはなかなか難しい。人間をごく一部として含むより大きな範囲の自然の振る舞いの傾向*8をあまりにも無視しすぎた人工世界を構築してしまうと、コーヒーが自然に冷めるがごとく、あるいは氷が自然に溶解するがごとく、秩序はより安定な方向に向かって人間の意志のあり方に関わらず変化していくものなのでしょうか。




いつも思うのだけれど、書き終えるまで自分が何を書くのか自分自身がわかっていないというこの事態は非常に面白いことである。事実、つい先程書き始める寸前まで自分が今日のこの時間にブログを書くということを全く予測していなかったし、書いているときでさえ、次にどんな言葉が出てくるのか全く把握していない。



さて、以上の文章を通して眺めてみたとき、随所に苦々しい個人的体験を修復する際に生み出された「汝の傷跡の反映としての経験則」がにじみ出ているのが一目瞭然である。さらに、自身の現状を反映した自我のいびつが文章のいびつとなって随所に見られる。また、具体例や理由の詳述がなされていないという特徴があると思われる。この内容(自身の有り様)にはどのくらいの普遍性があるのだろう。また、長所と弱点は何なのだろう。今後どう変化していくのか個人的に興味深い。数年後に今の自身の有り様を振り返ったとき、果たしてどのように映るのだろう。それまでこの文章を放っておこうと思う。

*1:いつもそうじゃないかというつっこみはずぼしすぎるから置いておくとして

*2:例えば日本においては、戦国時代の列島史上初の鉄砲を使用した戦、明治維新で西洋に触れた際の衝撃や第二次大戦敗戦の衝撃などのどれもが「未曾有」だったのでしょう。

*3:メディアというものはそういうものだから、これは当然のことなのかもしれない。視聴する人々が各自気をつければよいのかもしれない。

*4:もちろんテレビや新聞を通して「間接的に」失業者が増加しているらしい(どのくらいかは十分に把握していない。)ということは聞いている。それが本当だとすれば、社会問題の一つとして取り組む必要があると思っている。と同時に、多くの国々と比較したとき、日本の失業率がまだまだ低い理由についても大いに関心がある。まず、各国の失業率が具体的に何をカウントしているのか知る必要がある。

*5:デメリットは擾乱に対する安定性に欠けるところだろう。例えば、加入者3人の保険と1億人の保険を比較するとわかりやすい。

*6:例えば、ニーチェキリスト教を奴隷道徳だと喝破したのは慧眼だと言えるでしょう。キリスト教は奴隷社会から生まれ―つまり500年に渡って植民地支配されていた民族からキリストが生まれ―さらに、その後の中世ヨーロッパの社会構造にジャストフィットしたため生き残ったと言えるでしょう。もし私が支配者で、植民地の人々をうまく統治したいのなら、キリスト教のような思想の布教に努めます。そういう意図的主体の有無は別として、当時の社会にフィットするものが残ったということは言えるのでしょう。また、儒教的精神の一部が現代日本から着実に消えつつあるのも、めまぐるしくイノベーションの起こる現代においては必然だと思われます。これらについては、気が向いた時詳述するつもりです。

*7:このあたりについては思うところがたくさんあるので、気が向いたときに、より具体的に取り上げてみようと思っています。特に宗教に関しては、思うところがたくさんあるのですが、ダヴィンチやガリレイの時代ほどでないにせよ、現代においてもまだまだ語りにくいところが正直に申し上げると多々あります。ガリレイは単刀直入に語った結果、有罪判決を受けてしまいました。ダヴィンチの場合はうまく表現しているように映ります。ああいう方法を見習うのも一手なのかもしれません。ニーチェダーウィンも言いたいことをストレートに言っていますね。もっとも、私の場合、彼らのようにだいそれたことを言えるわけでも言いたいわけでもないですし、批判をしたいわけでもなく、あらゆるものから学び、より普遍的な知恵としてアップデートしたいだけなのですが。

*8:これがどのようなものなのか今の私にはわかりかねます^^;