祝!星野ジャパン北京五輪出場――ドゥンガは生きた彫刻である!そして裾を気にするやつは褒めてやれ!


 うれしい。

 ほんとに感動!

 星野ジャパンの皆さんが、試合中、「ドゥンガタイプ」のガッツポーズをたくさんしてくれて。

 ドゥンガって、説明するのも野暮だけど、元ブラジル代表ボランチの、あのドゥンガ。当時のブラジル代表における父親的存在として、チームをまとめ上げていました。PKを決めた後のこぶしを下に突き刺す重心のブレないガッツポーズは、もう、なんと申し上げればいいのでしょうか、人類史上最高、いや、あいのり史上最強のガッツポーズとでも形容すればいいのでしょうか。最高にカッコよかったです。30世紀ぐらいの世界史の教科書に載ると思いますよ。ロダンの彫刻みたいなかんじで。

 武士です。武士。あれは。

 あのガッツポーズは、外向きの誇示とは対極の、内向きの鼓舞ですよ。抑えきれないパトスの謙虚な解放。

 星野監督や選手の皆さんのドゥンガに対するリスペクトが伝わってきて、ほんとうに感動しました。

 冗談はこのくらいにしとくとして、星野さんは熱くていいですね。感情表現の幅が広くてステキ。

 スポーツの素晴らしさが凝縮されたかんじで、魂が熱くなりました。こういう試合を見たちびっこは、おおいに感化されるのではないでしょうか。

 その裏で、Yahooトピックスにこんな記事がありました。

『巨人のOB会総会が2日、文京区の東京ドームホテルで開かれた。OB会会長の長嶋茂雄終身名誉監督(71)、同副会長の広岡達朗氏(75)ら参加した80人の“お歴々”は、Gナインの「ユニホーム姿」にダメ出し。V9時代をお手本とした着こなしの統一を球団に働きかけることを決めた。〜略〜「ユニホームは(野球選手にとっての)礼服。まちまちに着るのは良くない」と広岡氏。この日はパンツのすそをだぶつかせてはくスタイルについて原監督に“事情聴取”も行われ、「監督ではなく、球団がルール化すべき」(同氏)という結論に至った。〜略〜参加したOBには「長いすそが(激しいプレーの際に)防御になるというのは言い訳」(張本氏)との意見も多く、着こなしはV9時代をお手本にしたストッキングを見せるスタイルが採用される可能性が高い。』

らしいです。

 昨日、今日と、すばらしい試合を見た直後だっただけに、苦笑しました。少なくとも、今日の試合では、スソなんかまったく気になりませんでしたよ。今日の試合には、そんなこととは別のフェイズの大切なものがたくさんあふれていたと思いますよ。どこの世界でも、年寄りと若者の間の軋轢というものはあるのでしょう。制服を注意されるのは、中学生だけかと思っていただけに、笑いました。おそらく、多くの人間は歳をとると脳の可塑性がなくなって、時代の変化についていけないのでしょう。自分が変わるというのは、ものすごくシンドイことですから。かといって、人を変えるのは、おそらく、もっと大変ですけどね。彼らはおそらく自分の受けた教育を正当化したいのでしょう。あるいは、「昔はよかった。」と言いたいのでしょう。そういう人はたくさん褒めてあげましょう。まだまだ褒めたりないのでしょう。これも介護のひとつです。きっと喜んでくれますよ。

 一方で、彼らの主張にも一理あるのでしょう。制約の中で、ベストパフォーマンスをするというのが、スポーツそのものであり、それは、人間関係を含む環境と相互作用しながら生きていく上で大切なことですし、心の陶冶にもつながるからです。イチローのようなストイックなひとの場合、ストッキングを出していた時期も、隠していた時期もありましたが、どちらでもカッコよかったし、気になりませんでした。こういうひとなら、そんなことは個人のささやかな趣味で済む話です。イチローと比較した時、今の巨人の選手達に一言申したい気持ちは分かる気がします。OBの方々は、単にユニフォームだけの話ではなく、スポーツにおける自己修養の部分を指摘したいのかもしれませんね。だいたいにおいて、こういうことを書いていると、すべて自分に刺さってきますね。人に対して放った矢は、必ず自分に刺さります。とても痛いですが、仕方がないでしょう。

 長々と書きましたが、上の内容を要約しておきますと、ぼくは巨人があまり好きではないということです。ただそれだけです。

 まあ、画一化する動きと、拡散する動きがほどよい地点でつり合っているのが、好ましい状態なのでしょう。こんな当たり障りのないことを言っておきましょう。しかし、こういう主張は、ある種のコミュニケーションの拒絶ですね。両方がわかると言いつつ、掘り下げることから逃げている。会話においては、あえて極端な立ち位置に立つことも時には大切だと、最近思います。その上で掘り下げる。そうすると、学びが多いです。一方で、フレームが見えなくなっているようなときには、上の主張のように、対立意見を包み込むかたちの視点を与えるのも重要でしょう。自分が手放しで褒めるものの欠点が何か考えることは大切だし、自分が反発を覚えるものの長所を考えるのも大切だと、ぼくは思います。けれども、他人にその人が愛しているものの欠点を聞くと、たいていの人は顔が曇りますね。誰でも、自分の愛するモノの欠点を見つめるのはつらいのでしょう。目をそらさずに見つめることで、自分や様々なモノゴトを客観視する力が高まると思います。欠点が見えているということは、課題が明確になっているということです。あるいは、欠点を補うかたちで動けるということです。目をそらして「プラス思考」で生きるのも悪くないですが、長短見つめたうえで、引き受けて生きるのもありでしょう。欠点は同時に長所であることが多いですし、価値判断自体、文脈依存的、主観的なものでしょうから、必ずしも、変える必要はないでしょう。変えるも変えないもそのひと次第。あるいは、変えられない、変わらざるをえないこともあるでしょう。とにかく、自分のかたちを自覚しておくことが、まずは大切だと思います。

 最近読んだ写真家の浅井慎平さんの書かれた『反・鈍感力』という本に、面白い記述がありました。松坂はイチローに「おまえ、野球をなめているだろう。」と言われたことがあるらしいです。松坂は自分なりに一生懸命でしょうから、「えっ」っていう顔をしながら戸惑ってると、さらにイチローは、「深いところで」と言ったそうです。二人の生い立ちや内面をあらわすなんとも味わい深いエピソードですね。できるということ自体が、できないことをつくるわけですね。著者は、『コンプレックスがないっていうのは、人間にとって”恵まれていることがもたらす不幸”です。』と述べています。これは、その通りだと思います。得るものがあれば失うものがあるわけですね。

 でも、もともとできるということ自体は、ステキなことだと思います。例えば、ぼくは、スポーツ選手なんかで、ものすごく身体に恵まれた人を見ると、小さい頃に尋常でないサイズのザリガニを見つけたときのようなドキドキを感じます。恵まれているひとには、そういう、人を魅了する引力のようなものがあると思います。
 
 一方で、苦労してできるようになるひともすばらしいし、苦労してできなかったというのも、ひとつのかたちでしょう。彼らは、もともとできるひとにはない味わい深い人柄をもっていますし、ひとから慕われている人には、そういうひとが多い気がします。

 最後に、ぼくはそんなにドゥンガが好きではないんです。あのアーリークロスとか的確なロングフィード、全体を見ながらバランスをとる動き。頼もしかったですね。やっぱり、大好きなのかもしれません。彼は、生きた彫刻ですから。