つらいときや悲しいときにはどんな曲を聴くのかな。
明るい曲よりかは、穏やかなものであったり、落ち着いたものを聴く人が多いのかな。
そのときのこころの「温度」と同じ温度の曲に癒されることって、多いんじゃないかな。
曲にかぎらず、そのときの気分にぴったりの温度というのがある。
たとえば
雨を味わうためのこころの温度というものがある。雨の温度というものがあると言ってもよい。雨が降ってくることによって、こころがその温度になることもあれば、その温度のこころのときに、雨が降ってきてくれて助かることもある。雨の温度でぼぉっとしたり、話をしたり、本を読む。こういうのがすき。
バイクに乗っていて、時速30キロで走りたいときがある。60キロで走りたいこともある。止まりたいときもあるし、歩きたいときもある。それぞれの速度や移動手段に特有の温度がある。新幹線の車窓から景色を見ることでしか得られない温度というものがあるだろうし、飛行機から、月から、天の川から眺め、感じることでしか得られない温度もきっとあるのだろう。
いろんな温度を味わってみたい。
そう言い出すときりがないけれど、ご縁のあった環境を精一杯味わえばよい。
ぼくたちは、エアコンや車、携帯電話の存在する文明社会を生きているから、平安時代のひとたちが感じたのと同じ強度の、季節の移り変わりの喜びやつらさ、せつなさといった温度を感じることはなかなか難しいのかもしれない。そのかわり、今の生活でしか感じることのできない温度がきっとたくさんあるはずだ。過去の人の作品を通して、異なる環境において、どのような感情が喚起されるのかを想像し、ときには体験することは本当に大切なことだろう。一方で、懐古主義に留まっていたのでは、生命の瑞々しい躍動が抑制されてしまう。時間を見つめながらも、今にピッタリ貼り付き目をそらさない。つまり、今の温度をストーキングする。こんな生き方がいい。
人の温度ってなんだろう。
ひとから感じられる温度は千差万別で、しかもその温度は刻一刻揺らいでいる。悲しんでいたり、苦しんでいたり、怒っていたり、そんな温度の人に対して、同じ温度まで降りてきてくれて、そこから共に流れてくれる人を、情に厚い人というのだろう。反対に、降りてきて、自分の立ち位置を見失って流れてしまうことを、情に流されるというのだろう。星野仙一さんの魅力の一つは、地図をしっかり見つめながら、一緒に流れてくれるところにあるのだろう。
ひとそれぞれ、異なる温度計を持っている。あなたの温度計は、あなただけのものだから、誇りを持てばいい。あなたが存在すること自体が極めてユニークなことだから。そして、あなたの温度はあなただけのもので、生きているかぎり変化し続けている。
南米でサンバをおどるひとたちの温度、イラクで生活しているひとたちの温度、アメリカでバスケをしているひとたちの温度、お寺で修行に励んでいるひとたちの温度、犯罪を犯してしまったひとたちの温度、今日結婚式を終えたばかりのひとたちの温度・・・・いろんな温度があって、しかも、同じ体験をしていてもひとりひとり温度は異なる。
体温計や温度計で測れる温度も面白い。
一方で、それらでは測れないたくさんの面白い温度が存在する。
温度を測る生き方は、日々の生活に彩りを与えてくれる。五感があればいいから、お金もかからない。節度を生むのもいい。
けれども、計画性との相性はあまりよくないのかもしれないね。
何かを得ると何かを失う。揺らぎながら生きていけばいいのかな。