大日本人――たたみかけるフレーム化がもたらす脱真面目の視点


始めに、まだ『大日本人』を見ていなくて、今後見る予定の方は、以下の文章を読まないほうがいいと思います。

 数日前に、松本人志の初監督作品『大日本人』を見た。
 
 ストーリーは、「大日本人」という「職業」に就いている大佐藤という男の日常を描いたもの。本来なら、ウルトラマンのようなヒーローであるはずの存在が、この映画の世界では、単なる一職業である。スポンサーが付いて、テレビの深夜枠で放送される。形骸化してしまって、本人も周りの人々も、誰もその行為の意味や目的を理解していなかったり、必要性を感じていない。むしろ迷惑がっている。それなのに、依然として世の中に存在していて、多くの人々が、それに関係する職業に就くことにより生活が成り立っている。また、大日本人関係の仕事をする人たちは、自分のやっている仕事やあらゆる行動を自分がなぜやっているのか、二三の質問を投げかけられただけで、すぐに答えに窮してしまう。このあたりが、笑いと共に、真面目を突きつけてくるところ。
 
 実社会においても、そういうことはよくあるだろう。たとえ、学者や政治家、評論家が真剣に議論しているように見えても、実は二三層の堅い殻の下には底なし沼がぽっかりと口を開けている。大真面目な顔をしてやっていることが、実はそんなに真面目ではない。人間なんてそんなものである。
 
 話を飛躍させよう。何か大きくて真面目な集団としての人間の行為や問題―例えば、防衛や戦争、過労や自殺やいじめなど―がある時、それを実際に支えている莫大な数の人ひとりひとりは、実はその意味をよくわかっていなかったり、必要性を感じていなかったりということはよくある。一人一人は、意味もわからず、必要性も感じずに、日常的な仕事や習慣としてやっている。それが、集団になったとき、個物には宿っていない新しい性質が生じる。このことは、いろんな階層において言える。例えば、台風という現象を考えた場合、水素原子や酸素原子の一つ一つには、集団としての台風の示す性質は宿っていない。しかし、あるパターンで関係性を保ち、集団となったとき、原子や分子では持ち得なかった性質を獲得する。人という一個体も同じである。個々の構成原子や細胞には、生きるという性質は備わっていない。あるネットワークが形成された時はじめて、生きる、考えるという性質が生まれる。同様に、人間1人1人には宿っていないけれど、60億人の相互作用する集団として捉えたときに現れる性質というものはあるだろう。2人、3人、100人、100万人、一億人、五十億人、一兆人・・・それぞれのスケールにおいてはどうだろう。細胞一つに人間の振る舞いが予測できるのか。できてほしいがわからない。

 話を戻そう。上の、思考の底を意識させることもそうだけど、とにかく、映画全体に渡って、徹底的に「フレーム」を意識させ、没入することを禁じるということを、試みている。しょっぱなのカメラを回しながらのインタビュー形式で、これが映画であるというフレームを明示する。さらにその映画の中では、職業としての大日本人であるという、「ヒーロー」のフレーム化、思考の底を示すことによる「真面目」のフレーム化がなされる。最後の実写版で、今まで見てきた全ての話を囲むフレームが与えられる。「役を演じる芸人」というフレーム。そして、エンディングのダメだしで、「芸をする人間」というフレームを示して、完結する。この最後のたたみかけるフレーム拡大攻勢に飲まれて、鑑賞後に自分自身をフレームに入れる視点が立ち上がる。これは、なんとも言えない感覚である。自分とは、どんな役なのだろう。たまには、そんなことを考えてみるのも悪くない。

 次に、細部について。

 大日本人の戦う相手である「獣」(怪しくないから怪獣ではないらしい)のどれもが、構造上の致命的欠陥を持っているところが、ベタに笑える。亀をひっくり返したら起き上がれないみたいな。そして、大日本人は何もせずに、あるいは、相手が勝手に「詰んだ」後、ためらいながらとどめを刺すことで、勝利を手にする。面白かったんだけど、こういうのは、動きがないほうが想像が掻き立てられてより面白いと思う。だから、世界の珍獣シリーズhttp://www.butsuyoku.net/shokugan/matsumoto/の方が好きだ。例えば、「ドクササリ」(〜うっかり自分の毒針で自分を突き刺して〜油断させ、〜「嘘じゃボケ!」感覚で捕食する〜しかし、〜知らない相手にしたら、「何をしてはんのかな?」レベルであり〜)。他には、シャクレガイとかテナガガメとかモヤシシとか。これは、BRUTUShttp://www.brutusonline.com/brutus/issue/index.jsp?issue=618という雑誌にも載っていたから、ぜひ見てほしい。

 最後の実写版では、最初渋っていた大日本人が、「ぜひ」と言われて加わって、ヒーロー五人で手を重ねてビームで敵を倒すシーンがある。このとき、大日本人が手を離しても置いても、何の変化もなくビームは出続ける。これに象徴されるように、強いアメリカの言いなりになる日本、何もできなくて、役に立っていない日本、強く頼まれると断れない日本、というベタなメッセージを、笑いと共に発していた。イラクにいる自衛隊を、引いたり出したりしまくったり、六カ国協議の最中で、何度も帰ったり戻ったりしてみても、大勢に何の影響もないかもしれない。実際にやっているところを想像すると面白い。

 エンディングの宮迫博之宮川大輔のからみは、もうちょっとできたんじゃないかと思う。ちょっと残念だった。

 それでは、全体の感想。

 これだけ書いといてなんだけど、

 ぼちぼちでした。

 先日、テレビで松本人志が、次作はポルノかカメラ目線の時代劇がいいかも、と言っていた。まさか、こんな体位を〜みたいな。これは、素材的に相当面白そうだから、ぜひとも実現してほしい。