長谷川等伯を余白の美で片付けるのは失礼千万―― 一休さん!それはとんちではなくて、ただのやりすぎです!

okayasukenji2007-02-24



 花粉にまみれながら京都の大徳寺に行く。

 大徳寺鎌倉時代臨済宗の宗峰妙超というお坊さんにより開創されたらしい。応仁の乱で一旦グチャグチャになったが、あの一休さんが復興した。一休さんは酒は飲むし、女に手を出す、肉も食う。絵を見るとスポーツ刈りっぽい。77才で同棲するし、80才を超えてから大徳寺の住持(今でいうCEO)に任命され、再興に尽力した。恐るべき自由奔放さとバイタリティー。有名なお坊さんはみんな、流行の最先端を歩んでいたヒトたちなのだろう。
 そんな一休さんを慕ってるヒトが、当時の堺の商人の中にはいて、その透明な未来志向の空気から(実際そうだったのかは知らない)千利休が出た。利休は最先端の茶道というムーブメントを起こし、大徳寺に茶室を数多く造った。晩年自分の像を作ったところ秀吉の怒りをかい切腹させられたらしい(諸説あり)。
 
 そんな大徳寺も、現代においては様々な目的をもったヒトが入り乱れている。あるヒトにとっては観光地、あるヒトにとっては仕事場、あるヒトにとっては生活空間、あるヒトにとっては通り道。境内は大人が全力で鬼ごっこできるぐらいに広い。信長公廟所の前に無遠慮に停めてある車が、そんな多文脈性の象徴に見えた(上の写真)。
 
 境内の真珠庵へ。今でいう応接間の襖に、長谷川等伯の商山四晧図が描かれているらしい。薄暗い部屋に古臭い襖があった。なんとなく、ぼんやり眺めながら、染み一つないきれいな襖に、等伯が新鮮な墨で描いているところを想像してみた。目前の作品を、完成してすぐのモノとして見る。そうすることで、等伯に急接近できた気がした。

 等伯水墨画といえば、余白の美という観点で語られることが多い。しかし、この作品に関してはもっと直接的な製作の動機だったのではなかろうか。つまり、等伯の目と、松や岩が結ばれた。従って、他は描く必要もない。どういう経緯、環境で描いたのか全く知らないし、実際のところはわからない。けれど、等伯とのコミュニケーションが成立した気がした。

 長い間襖を眺めた後、庭を見ると、鮮やかな黄緑の苔に埋め込まれた庭石が西日をうけていて、襖の中の岩のような影をつけていた。襖を見る前とは違った感じに見えたから、いきなり出ました等伯効果と思った。
 
 真珠庵は、建物や障子、茶室や飛石の全てが小振りでかわいらしい。当時のヒトは現代人より繊細だったのかもしれない。こんなところで読書をしたい。住んでみたい。実家が真珠庵。実家がヒノキ風呂よりいいかもしれない。実家がヒノキ風呂付きの真珠庵。片岡篤志も驚いてくれるだろう。これが一番いい。
 
 庵を出て、境内の松を目に付く限り見た。残念ながら枝はいずれも等伯の描いたようには見えなかったから、木が悪いということにしておいた。
 
 大徳寺を出て、北大路を右に折れ、堀川を下る。現代の日本は、ド派手な色があふれている。モノの形も大雑把、雑音もひどくて、全体的に大味になってしまっているのかもしれない。華やかなのもいいけれど、少し寂しい気もした。