花に卑猥としたたかを感じる人々
気が狂いそうになるほど
木が生々しく突き刺さり
きれいに あるいは気持ち悪く見えた人々が
過去には存在した
世界が宝石で満ち溢れるあの半狂気
風狂の世界
木は、異種生物間における社交性を持った生き物にのみ心を開く。卓越した謙虚とやさしさを持つ者のみが、木々の声を聴くことができる。声を聴いた者は、木に畏敬の念を抱かざるをえない。木を祭らざるをえないほど、感性の研ぎ澄まされていた人々が過去には存在したということを、たとえ理解できなくとも、我々は謙虚に受け止める必要がある。それは論理的に理解することではなく、感じることである。つまり、アニミズムは考え方ではなく、感じ方である。まぐろを食べたことのない人に、その味を論理的に説明しても、おそらくその人はまぐろの味を知ることはないだろう。アニミズムとは、鋭敏すぎる感受性の証である。現代文明に至る歴史は、大いなる感受性後退の歴史でもあり、現代都市文明とその種の感受性はトレードオフの関係にある。現代に生きるあなたがもし精霊に出逢えたとしたら、現代はあなたにとってとてつもなく生きにくい世界となるだろう。
ああ我々は 悲しみと共に 自身の鈍い感性に感謝すべきではあるまいか
毎秋、京都には、落葉樹の葉の死に際を見届け、記録したい現代人がたくさん訪れる。紅葉を鶴首して待つ我々のこころにやわらかいものがあるとしても、日々を木と共に過ごす「日々是紅葉」のアニミズムの立場からすると、おそらく、木を秋にしか鑑賞しない生活はとても貧しい。我々は、もしまぐろを食べたいのであれば、まず、京都が年中木の祭典であることを知るべきである。さらに、京都の本当の黄葉は、十二月初旬の刹那に訪れるから、くれぐれも焦ってはならないだろう。そして、葉を落とした広葉樹の姿に狂気を感じたならば、あなたと現代を繋ぐ糸を切らぬよう、しばらく目を閉じていればいい。
小さきものは枯れ落ち、大きなものが残り、こうして文化は継承される。2007年を生きる中高年のほとんどは、目と鼻の先にある2050年の世界を見ることはできないし、今地球上に生存しているあなたを含む60億あまりの人間は、たった100年後には全滅しているだろう。こうして葉は散り月日は流れる。
現代を生きる我々は、どんな木の葉に見えるのだろう。
木の葉よ
世界を体いっぱいに受けとめ
鳥のように詩をうたい
やがてやさしく枯れ
諦観とともに散れ