空を自由に飛びたいな――ドラえもんをド真剣かつ少しナナメに批評してみた


 たまたま早く帰ってきて、超久々にドラえもんを視聴してみたんだ。しかも「ド真剣」かつ「少しナナメに」だ。ひょっとしたら10年以上ぶりかもしれない。声優たちが代わったというのは聞いていた。だから、ある程度は覚悟していた。けれど、これは想像以上の変わり様だ。とにかく特徴は以下の通りだ。

 なんというか、キテレツライク。

 服装、家庭の雰囲気、加えてのび太のキャラ。昔に比べのび太の「位」が上がっている。つまり、「表面上」人格が尊重されていて、そんなにいじめられたりからかわれたりしない。みんな微妙に彼に対するあたりがやわらかくなっていて、こそばゆいコミュニケーションをとっている。そして、彼自身がドラえもんを利用できるという自分の特権的な立場を冷静に受け止め昔のように無用に取り乱さない。あるいは計算しながら取り乱している。つまり「大人」なんだ。
 さらに、ジャイアンはセレブのスネオに押され気味で、立場が逆転しつつある。勢いがないし、暴力を振るわない。すでに疲れたサラリーマンの背中だ。もう、世の中、力の時代ではないのだよ、マネーの時代なんだよ、ジャイアン君!スネオの視線はそんな感じだ。いつもは乱暴なのに、長編の時にはみんなと協力してがんばるギャップのステキなジャイアン。そんな君がもういないとしたら、寂しいねえ。そして長いものに巻かれる無難なしずかちゃん。

 そんな人間模様を踏まえたうえで、第1話。

 おばあちゃんの介護のためママが留守にするから、パパがのび太たちの昼食を作るという、いかにも少子高齢化現代日本の家庭にありがちな設定。特にパパが前面に押し出されているあたり、何か作為的なものを感じる。で、昼食作りを試みるも大失敗するパパ。こうゆうときは寝るにかぎるとのたまいてフテ寝をはじめる。腹がへったが買いに行くのはダルイとごねるのび太。そこで「なんと」、ドラえもんが食べたいものが何でも出てくる『グルメテーブルかけ』なるものを出したんだ。これが、ただ食べたいものが出てくるだけというまったく夢のない代物なんだ。で、いろんな「普通の贅沢な食べもの」をたっぷり食べて大満足。社交性を発揮し、ジャイアン、スネオ、しずかちゃんにもご馳走。夜、看病を終えたママがみんなおなかをすかせているだろうと急いで帰宅。満腹で横になっている家族を見てスネて終わりだ。ママ!君はスネオか!スネちゃんか!

 実に現実的な普通の話だ。この程度の夢なら、下手をするとかなってしまいかねなくて危ない。

もっと、空を自由に飛んでいいんだよ。

銀河ステーションにいってもいいし、過去や未来に行ってもいいんだよ。

あんなこといいな、できたらいいなと、もっと想像力を働かせて、あんな夢こんな夢いっぱい見ればいいんだよ、子どもも大人も。

でないと、世界が半分の狭さになって息がつまっちゃうよ。なんだか、少し見ていないうちに、ずいぶん夢がしぼんで、縮こまっちゃってる気がするなあ。例えば、

 天国はある。

 こう言いきったときの世界の広がる感じがぼくは好きだ。最近こういう言葉をほとんど見かけないから、新鮮だねえ。ほんとにあるかどうかなんてどうでもいいと思うよ。この文脈においては。第一その「ほんと」のところがどうなのか実は未解決なんだ。

 で、もう書き疲れたんだけど、第二話。珍しい写真を撮りたいと、山に遊びに行った四人。ハイキング客がヤマゴンとかいうネッシー的リアルゴリラを見つけて騒いでいたので、タケコプターを使用し近づいた。後を追跡し洞窟に入ると、伝説の生き物の正体は着ぐるみだった。言っただろ、やまごんなんていないって、とクールなコメントをするドラえもん。ではと、どこでもドアを利用し、アルプスの雪男に会いに行くドラえもんのび太。いきなり雪男に出くわす。タケコプターをつけているのにあわてて走ってしまった自分たちを恥じる2人。ほんやくこんにゃくにより雪男語をトランスレート。ドラ焼きでごまをする。もっと食べたいと催促され、どこでもドアで地元に帰る。開けたままのドアから雪男乱入。あれやこれや。で、村おこしのためにこっそりバイト代を払って雪男を雇うという談合がドラえもんの指揮のもと取りまとめられて終了。

 談合は、時代如何で美談にも犯罪にもなりうる。時代の変わり目に当たった人は大変だぁ。ドラえもん!君は証人喚問という言葉を知っているのかい?

 以上、ナナメに見たドラえもん

 このあと勢いに任せてクレヨンしんちゃんも見たんだけど、共通して言えることは、感情的な大人に対して、冷めた目で世界を見ているこどもという構図。そして、クレヨンしんちゃんにおいては、作中に大人しかいない。つまり、ダヴィンチの聖母子像の赤子のような、自我の確立された子どもたちが描かれている。だから、これも世界が半分になっていて、とても狭い。実体験として、5歳と10歳は違うし、10歳と20歳も、20歳と30歳も大きく違う。そしておそらく、30、40、50、60・・・100歳。それぞれ違う。何が違うか。一つは、

想い出。

積み重ねないと獲得できない思想や感情、知恵がある。だから、老人は若者に迎合することはない。相互理解に努めることに意味はあるだろうけれど、歳に応じた考えや感情を持ち、それぞれの世代を尊重し、役割分担しながら生きればよいとぼくは思う。

 久々に、一時間アニメを見るという暴挙に出てみた。面白いけれど、いつも見ていると生きる力が失われそうな気がしましたよ。ファンの皆さんごめんなさい。

 そして、ないのならば、つくればいいと思いましたよ。ぼくがつくってもいいし、誰かがつくってくれてもいいですよ。大変でしょうけれど。

 では結論。上の文章が何を意味してるのかというと、要するにぼくは今不機嫌なのですよ。大変不機嫌。今かけている眼鏡で世界を見るとこういうふうに見えるんです。そして、「どんな眼鏡をかけるのか自分で選べる」このことに自覚的になったとき、きっと仏陀への道が開けるんでしょうね。