オバマ就任演説の喜劇化

オバマさん、米国、人間の特徴について、オバマ新大統領の就任演説から学んでみようと思いました。私とオバマさんのメンタリティーの違いとその起源について考えてみたいのです。そこで、Yomiuri Onrine より、オバマ米大統領、就任演説全文(和文http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20090121-OYT1T00132.htmを引いてきて、
気をつけて読むべきと私がみなした点、私ならこう言うと思った点、今後調べたり考えたりする必要があると思われる点を、加筆し、赤字で示してみました*1。結果、これまで私がアメリカらしいと思っていたものとは全く異なる喜劇的なものが出来上がりました*2。きっとここにはたくさんの学びが隠されていると思うのです。なお、原文(英文)を読んでいませんから、オバマさんの演説とニュアンスの異なるところが多々あると思われます*3



◆危機への決意◆

 市民の皆さん。私は今日、我々の前にある職務に対して厳粛な気持ちを抱き、あなた方から与えられた信頼に感謝し、我々の祖先が支払った犠牲を心に留めながら、ここに立っている。こうしてまずは自分を客観視するのである。まず、主に社交辞令ならびに、国内における敵対構造を緩和し協力体制を構築するために申し上げますが私は、ブッシュ大統領の我が国への奉仕、並びに大統領がこの政権移行期間に示した寛容さと協力に感謝する。

 これで44人の米国人が大統領就任宣誓を行った。宣誓は、繁栄の高まりのときや、平和で静かなときに行われたこともあった。しかし、しばしば、宣誓は、暗雲が垂れこめるときや荒れ狂う嵐のときに行われた。こうした時、米国は、指導者たちの技量や理念だけに頼ることなく、我々人民が祖先の理想に忠実で、建国の文言に正直であることによって、乗り切ってきた。

 ずっとそうやってきた。この世代の米国人も同様にしなければならないと私は思うが本当にそうなのだろうかともかく、このように、長い時間軸を提示することにより、個々の主体性が喚起されるという効果を狙っているのである。

 我々が危機の最中にいることは、現在では明白だ。(←我々アメリカ国民の多くは「主観的には」危機の渦中にいると思っているようである。)我々の国家は、暴力と憎悪の広範なネットワークを相手に戦争を行っていると「主観的には」思っている。私は主観的に感じる「敵」という存在が自らの妄想や行動により生じたり増幅される可能性に対して無自覚ではない敵もまた我々を相手に必死に戦っている。このように他者に対するエンパシーを大切にするのが私のポリシーである。我々の経済は、数年前と比較してひどく、具体的には〜程度弱体化している。(例えば〜のような)一部の者の強欲と無責任の結果であるだけでなく、厳しい決断をすることなく、国家を新しい時代に適合させそこなった我々全員の失敗の結果である。この発言により、個々が失敗を我が事として引き受け、責任をもって主体的に国をよくすることを決意し、行動してくれるようになることを期待しているのである。家は失われ、職はなくなり、ビジネスは台無しになった一部のアメリカ国民がいる。我々の健康保険制度は他の先進諸国と比較して、あるいは私の内なる基準(理想)と比較して、あるいは平均的家庭にとって金がかかり過ぎる。その理由は〜のためと考えられる。荒廃している我々の学校はあまりにも多い。具体的には〜程度である。また、その理由は〜のためだと思われる。さらに、我々のエネルギーの消費のしかた、具体的には、〜というライフスタイルが、我々の(とも)、具体的には〜を強化し、我々の惑星を脅かしているという証拠が、日増しに増え続けている。

 これらは、データと統計に基づく危機の指標だ。例えば、〜というデータは〜が〜という方法により取得したものだが、〜蓋然性が極めて高い。予測は困難だが、間違いなく深刻なのは、我々の国土に広がる自信の喪失や、米国の凋落(ちょうらく)は避けがたく、次の世代はうなだれて過ごさなければならないというぬぐいがたい恐怖だと私は思う。

 今日、私はあなた方に告げる。我々が直面している試練は本物だと私は思う。試練は深刻で数多い。試練は容易に、または、短い時間で対処できるものではないだろう。しかし、米国よ、わかってほしい。これらの試練は対処されるだろう。こう思ったほうがきっとうまく対処されやすいと思うから言うのである。正確には「対処されてほしい」である。
 この日、我々は、恐怖ではなく希望を、紛争と不一致ではなく目標の共有を選んだため、ここに集ったと私は思っている

 この日、我々は、我々の政治をあまりにも長い間阻害してきた、ささいな不満や偽りの約束、非難や言い古された定説を終わらせることを宣言する。

◆国家の偉大さ◆

 我々の国は建国230年程度と、多くの国々と比較してまだ若いが、聖書の言葉には、子どもじみたことをやめるときが来たとある。つまり、我々は子どもじみたことをしてきたと私は思っており、そのことを我々は今直視する必要があると言いたいのである。具体的には、〜という子どもっぽい発想と行動のことを言う。我々は今、テロと経済危機を経由して、全体対象関係へと至る過程なのかもしれない。そこで現れた象徴的存在が私、バラクフセインオバマなのかもしれない。今こそより大人になるときだろう。また、聖書には「剣を鞘に納めよ。剣を取る者は皆、剣で滅びるのだ。」ともある。この言葉をかみしめより賢く生きたい。例えば、〜に見られるような我々の忍耐に富んだ精神を再確認し、より良い歴史を選び、貴重な才能と、世代から世代へと引き継がれてきた尊い考えを発展させるときが来た。尊い考えというのは、すべての人は平等で、自由で、あらゆる手段により幸福を追求する機会を与えられるという、神からの約束のことであると私は思うここで言う「自由」とは、具体的に申し上げると、〜ということである。〜の場合にはその制約を受け入れるのが大人であると私は思う。我々が自由という思想を重視するに至った背景には、我々のアイデンティティ形成の起源に、抑圧からの逃走(拡散)と闘争(排除)という、二つの「とうそう」があったことと深い結びつきがあるのかもしれない。そして、これらの価値観はもちろんわが国だけに存在するものではない。
 我々の国の偉大さを再確認するとき、我々は、偉大さが決して与えられたものではないことに気づく。それは勝ち取らなければならないのだ。我々の旅は、近道でも安易なものでもなかった。もちろん、他国の旅もしかりである。言いすぎかもしれませんが、我々の旅には、仕事より娯楽を好み、富と名声の喜びだけを望むような、臆病者のための道筋はなかった。むしろ、我々の旅は、危機に立ち向かう者、仕事をする者、創造をしようとする者のためのものだ。それらの人々は、著名な人たちというより、しばしば、無名の働く男女で、長い、でこぼこした道を繁栄と自由を目指し、我々を導いてきた人々だ。このように語りかけることにより、個々の主体性が喚起され、よりよい協力体制ができてほしいのである。
 我々のために、彼らは、わずかな財産をまとめ、新たな生活を求めて大洋を旅したと私は信じている

 我々のために、彼らは、劣悪な条件でせっせと働き、西部に移住し、むち打ちに耐えながら、硬い大地を耕した。もちろん、多くのインディアンに対するエンパシーも忘れていない。
 我々のために、彼らは、(独立戦争の戦場)コンコードや(南北戦争の)ゲティスバーグ、(第2次大戦の)ノルマンディーや(ベトナム戦争の)ケサンのような場所で戦い、死んだ。そして、当然のことながら戦争には相手が存在するわけだから、我々の祖先が犠牲になったのと同様に、多くの他国の戦死者がいたことにもまた思いを馳せる必要があるのである。

 しばしば、これらの男女は、我々がより良い生活を送れるように、手の皮がすりむけるまで、もがき、犠牲になり、働いた。彼らは米国を、個人の野望を合わせたものより大きく、生まれや富や党派のすべての違いを超えるほど、偉大であると考えていたと私は思う。そして、我々は、彼ら一人一人のルーツを直視することによりさらなる精神の安定を獲得しうるという可能性を知る必要があると私は思う

◆米国再生◆

 これが今日、我々が続けている旅なのだと私は思うアメリカ国民の皆さん、こんなストーリーの描き方はお気に召しませんか?米国は依然として地球上で最も繁栄し、力強い国だ。ここで言う繁栄とは、例えば、卓越した軍事力やGDPが世界一であることを言う。一人当たりGDPや人口は世界一ではない。我々の労働者は今回危機が始まった時と同様、生産性は高い。我々は相変わらず創意に富み、我々が生み出す財やサービスは先週や先月、昨年と同様、必要とされている。能力も衰えていない。しかし、同じ手を用いるだけで、狭い利益にこだわり、面倒な決定を先送りする、そんな時代は確実に終わった。今日から我々は立ち上がり、ほこりを払って、米国再生の仕事に着手しなければならないと私は思う

 なすべき仕事は至る所にある。米国経済は、大胆かつ迅速な行動を求めている。そして我々は新規の雇用創出のみならず、新たな成長の礎を整えることができる。道路や橋を造り、電線やデジタル通信網を敷き、商業を支え、我々を一つに結び付ける。科学を本来あるべき地位、つまり〜に戻し、医療の質を引き上げながら、そのコストは減らす。そのために〜というアプローチを採る予定である。太陽、風や土壌を利用して自動車を動かし、工場を動かす。具体的には〜。新時代の要請に合うよう学校や単科大、大学を変えていく。具体的には〜。我々はすべてのことを成し遂げられるし、行っていく予定である

 例えば〜のように、我々の野望の大きさについて疑念を抱く人がいる。例えば〜のように、我々のシステムは多くの大きな計画に耐えられないと指摘する人もいる。だが、彼らは忘れていると私は思う。彼らはこの国が何を成し遂げたかを忘れていると私は思う。想像力が共通の目的と出合った時、必要が勇気と結びついた時、自由な男女が何を達成できるかを忘れているのだと私は思う過去にそうだったからといって、全く同じ状況でない今、再び成し遂げられるという論理的必然性がないのはもちろんだとしても、そう思うことにより達成される可能性が増すと私は思う。

 皮肉屋が理解できないのは、彼らがよって立つ地面が動いたということだ。長い間、我々を疲れさせてきた陳腐な政治議論はもはや通用しないというか、そういう議論はもうしたくない。我々が今日問うべきなのは、政府の大小ではなく、政府が機能するか否かだと私は考える。家族が人並みの給与、具体的には〜ドル程度の仕事を見つけたり、負担できる(医療)保険や、立派な退職資金を手に入れることの助けに、政府がなるかどうかだ。二分法的発想で申し上げると、答えがイエスの場合は、その施策を前進させる。ノーならば終わりとなる。公的資金を管理する者は適切に支出し、悪弊を改め、誰からも見えるように業務を行う。それによって初めて、国民と政府の間に不可欠な信頼を回復できると思う

 問うべきなのは、市場の良しあしでもない。富を作り自由を広げる市場の力に比肩するものはない。だが、今回の(経済)危機は、監視がなければ、市場は統制を失い、豊かな者ばかりを優遇する国の繁栄が長続きしないことを我々に気づかせた。もしこのことが本当だとすれば、なぜそういう構造だと長続きしないのだろうか。拙かった点や過ちを直視し、しっかり反省、分析をし、教訓として今後にいかす必要があると私は思う。我々の経済の成功はいつも、単に国内総生産(GDP)の大きさだけでなく、我々の繁栄が広がる範囲や、機会を求めるすべての人に広げる能力によるものだった。繁栄を広げるとは〜ということであり、そのための行動が例えば〜でした。我々の繁栄ためにはイデオロギーの強制はやむを得ないことを認めよう。ロジックの空白を埋めるために申し上げると、これはおそらく「明白な運命」なのである。慈善としてではなく、公共の利益に通じる最も確実な道としてだ。

◆我々の安全とは◆

 我々の共通の防衛については、安全と理想とを天秤(てんびん)にかけるという誤った選択を拒否する。我々の想像を超える危機に直面した建国の父たちは、法の支配と国民の権利を保障する憲章を起案した。憲章は、何世代もの犠牲によって拡充された。これらの理想は、今日でも世界を照らしており、我々は都合次第で手放したりはしない。今日(の就任式を)見ている他国の国民や政府ら。巨大都市から私の父が生まれた小さな村まで。米国が平和と尊厳の未来を求めるすべての国々、すべての男女と子供の友人であり、おこがましいでしょうが、我々がもう一度、指導力を発揮していく用意があると、知ってほしい。ご迷惑をおかけすることも多々あると思いますが、若気のいたりとして、寛容の精神で見守っていただけると幸いです。
 前の世代は、ファシズム共産主義と、ミサイルや戦車だけではなく、強固な同盟と強い信念を持って対峙(たいじ)したことを思い出してほしい。彼らは、我々の力だけでは我々を守れず、好きに振る舞う資格を得たのではないことも理解していた。代わりに、慎重に使うことで力が増すことを理解していた。我々の安全は、大義の正当性や模範を示す力、謙虚さ、自制心からいずるものだ。いずるものなのだろうか。

 我々は、この遺産の番人だ。こうした原則にもう一度導かれることで、我々は、一層の努力や、国家間の一層の協力や理解が求められる新たな脅威に立ち向かうことができる。脅威ありきの自我の安定構造はさらなる脅威を無意識に求める危険性があるということをもちろん私は知っている。共通の脅威(天災、人災問わず)はバックグラウンドの異なる人々を団結させる作用があるということも。そしてそれが我々のアイデンティティを支えている主要な要素の一つなのかもしれない。従って、このような方法を採る場合、我々アメリカ人は共通の脅威を感じることにより団結することができるが、それと同時に、我々の敵たちもまた、共通の敵(我々アメリカ国民・政府)を持ち、団結してしまうことになるだろう。しかし、それはおりこみ済みである。一人相撲のように映るかもしれないが、我々は、責任ある形で、イラクイラク国民に委ね、苦労しながらもアフガニスタンに平和を築き始めるだろうと信じている再び二分法的に申し上げますが、古くからの友やかつての(とも)とともに、アメリカにとっての核の脅威を減らし、地球温暖化を食い止めるためたゆまず努力するだろう。そして、我々アメリカ自身が、他国にとっては核の脅威となっていることを私はもちろん自覚している。従って、もし全人類にとっての核の脅威を本当に減らしたいのであれば〜。

◆変わる世界◆

 またこんなことを言っちゃいますが、我々は、我々の生き方について謝らないし、それを守ることを躊躇(ちゅうちょ)しない。テロを引き起こし、罪のない人を殺すことで目的の推進を図る人々よ、我々は言う。我々の精神は今、より強固であり、壊すことはできないと。でも本当は壊れそうで狼狽しているのである。当面はこの自我の安定状態を維持したいのである。もちろんこの安定構造がおそらく落ち目に弱いという弱点を孕んでいるのであろうことに私は無自覚ではない。あなたたちは、我々より長く生きることはできないと私は信じているし、強がりたいし、圧力をかけたいのである。我々は、あなたたちを打ち破るだろう。とは言うものの、私は「あなたたち」と「わたしたち」という境界が曖昧になったり同化したりする可能性にはもちろん気づいている。次に述べるように、多民族国家の我々はアイデンティティーの形成過程について熟知しているのである。

 我々のつぎはぎ細工の遺産は強みであって、弱みではない。いや、正確には、強みと弱みの両方だろう。我々は、キリスト教徒やイスラム教徒、ユダヤ教徒ヒンズー教徒、それに神を信じない人による国家だ。我々は、あらゆる言語や文化で形作られ、地球上のあらゆる場所から集まっている。わが国は来たるべき地球規模の共存社会を先取りしたミニチュアだと私は思うのである。
 我々には、南北戦争や人種隔離の苦い経験があり、その暗い時代から出てきて、より強く、より団結するようになった。我々は信じている。古くからある憎しみはいつかなくなり、民族を隔てる線も消えると。世界が小さくなる中で、我々に共通の人間愛が現れることになると。米国が、新しい平和の時代に先駆ける役割を果たさねばならないと、さしでがましいでしょうが、私は思うのです。正確には、「果たさなければならない」ではなく、「果たしたい」である。上述のように、一連の経験により共存の知恵を我がアメリカ合衆国は有していると思うからです

 十羽一絡げにして申し訳ございませんが、イスラム世界の皆様よ、我々、正確にはアメリカ政府は、相互理解と尊敬に基づき、新しく進む道を模索する。具体的には、対話を重視し、譲り合うことでなんとか折り合いをつけられると考えています。また、相互理解と尊敬のためには、個々がそれぞれの文化や宗教について深く学び(知り)コミュニケーションをはかるプロセスが不可欠だと考えています。紛争の種をまいたり、自分たちの社会の問題を西洋のせいにしたりする世界各地の指導者、具体的には〜よ、国民は、あなた方が何を築けるかで判断するのであって、何を破壊するかで判断するのではないだろうことを知るべきだと私は思うこの言葉はそっくりそのまま私、そしてわが国に突き刺さってくるということは自覚している。私は、私や我々が自分たちの問題を他人や他国のせいにしすぎるのは好ましくないと思う。私は破壊ではなく、築くことを重視したい。腐敗や欺き、さらには異議を唱える人を黙らせることで、権力にしがみつく者、具体的には〜よ、あなたたちは、歴史の誤った側にいると私は思う。いや、正確には、誤った側というより、滅びる側にいると私は推測する。なぜなら、あなたがたのような社会集団の有り様は我々のそれと比較したとき、集団全体の知識、技術、文化などの諸水準が低くなってしまうと思うからである。上から目線に聞こえたとしたら申し訳ありませんが、握ったこぶしを開くなら、我々は手をさしのべよう。立場が逆転したときにはどうか仕返ししないでね。

 貧しい国、例えば〜の人々よ、我々は誓う。農場に作物が実り、きれいな水が流れ、飢えた体に栄養を与え、乾いた心を満たすため、ともに取り組むことを。具体的には〜をする予定です。我々と同じように比較的満たされた国々、例えば〜よ、我々が国境の向こう側の苦悩にもはや無関心でなく、影響を考慮せず世界の資源を消費することもないと言おう。これは、わが国が、今までそれらに無関心であり、影響を考慮せず世界の資源を消費してきたと私、オバマが思っているということである。今までは誠に申し訳ございませんでした。それらに配慮するために、〜をする予定である。だから、アメリカ国民は今後〜を覚悟する必要がある。世界は変わった。こういう風に言いたくなるんです。なぜだろう。ひょっとすると、自己陶酔かヒロイズムかもしれない。この有り様には長短あるのだろう。だから、我々も世界と共に変わらなければならないと私は思う。これは今回に限ったことではないだろう。万物は流転するのであり、それに伴い我々は生き方を変え続ける必要があると私は思う。

 我々の前に広がる道について考える時、今この瞬間にもはるかかなたの砂漠や遠くの山々をパトロールしている勇敢な米国人たちに、心からの感謝をもって思いをはせる。彼らは、アーリントン(国立墓地)に横たわる亡くなった英雄たちが、時代を超えてささやくように、我々に語りかけてくる。このような語り口で、空間的、時間的に「今ここ」から離れ、広い視点を示すことにより、人々の心に希望や公共心が喚起されやすくなると思うのである。我々は、正確には私は彼らを誇りに思う。それは、彼らが我々の自由を守ってくれているからだけではなく、奉仕の精神、つまり、自分自身よりも大きい何かの中に進んで意味を見いだす意思を体現していると思われるからだ。これこそが時代を決するこの時に、我々すべてが持たねばならない精神だと私は思う。すべてというのは言いすぎだとしても

◆新しい責任の時代◆

 政府はやれること、やらなければならないことをやるが、詰まるところ、わが国がよって立つのは国民の信念と決意であると思う。堤防が決壊した時、見知らぬ人をも助ける親切心であり、暗黒の時に友人が職を失うのを傍観するより、自らの労働時間を削る無私の心である。これらは、アメリカ国民に限ったことではなく、人間に普遍的な行動だと思われる。我々の運命を最終的に決めるのは、煙に覆われた階段を突進する消防士の勇気であり、子どもを育てる親の意思であると思う

 我々の挑戦は新しいものかもしれない。我々がそれに立ち向かう手段も新しいものかもしれない。しかし、我々の成功は、誠実や勤勉、勇気、公正、寛容、好奇心、忠誠心、愛国心といった抽象的な価値観にかかっている。これらは、昔から変わらぬ真実であると私は信じている。なぜ信じているのだろう。これらは、歴史を通じて進歩を遂げるため静かな力となってきた。例えば、〜。必要とされるのは、そうした真実に立ち返ることだと思う

 いま我々に求められているのは、新しい責任の時代に入ることだと思う。米国民一人ひとりが自分自身と自国、世界に義務を負うことを認識し、その義務をいやいや引き受けるのではなく喜んで機会をとらえることだと思うまた、我々が義務だと思っている諸事が本当に我々の義務であるのかどうか精査する必要もあると思う。困難な任務に我々のすべてを与えることこそ、心を満たし、我々の個性を示すのだろう

 これが市民の代償であり約束なのだと思います。これが我々の自信の源なのだと思います。神が、我々に定かではない運命を形作るよう命じているのだと思います

 これが我々の自由と信条の意味なのだと思います。なぜ、あらゆる人種や信条の男女、子どもたちが、この立派なモールの至る所で祝典のため集えるのか。そして、なぜ60年足らず前に地元の食堂で食事することを許されなかったかもしれない父親を持つ男が今、最も神聖な宣誓を行うためにあなた方の前に立つことができるのか。このような「なぜより人格の尊重される方向に人間社会が向かっている(ように思われる)のか」という問いは非常に興味深いと私は思う。一つの仮説として、階級や身分が固定化されすぎた社会においては、適性に応じた能力開発や適材適所の人材配置がなされにくく、また、集団の生産性の向上のために不可欠だと思われる主体性を欠く個体が増加するため、より自由な社会に淘汰されていくということが挙げられると、私、オバマは思いますが、いかがでしょうか。

◆自由を未来へ◆

 だから、我々が誰なのか、どれほど長い旅をしてきたのか、その記憶とともにこの日を祝おう。米国誕生の年、酷寒の中で、愛国者の小さな一団は、氷が覆う川の岸辺で、消えそうなたき火の傍らに身を寄せ合った。首都は見捨てられた。敵は進軍してきた。雪は血で染まった。我々の革命の結末が最も疑わしくなった時、我が国の祖は、この言葉を人々に読むよう命じた。
 「酷寒の中、希望と美徳しか生き残ることができない時、共通の脅威に気づいた町も田舎もそれに立ち向かうために進み出た、と未来の世界で語られるようにしよう」

 アメリカよ。我々自身が共通の脅威に直面している時に、我々自身の苦難の冬に、時を超えたこれらの言葉を思い出そう。希望と美徳を抱き、このいてつく流れに再び立ち向かい、どんな嵐が訪れようとも耐えよう。

 そして、我々の子孫に言い伝えられるようにしようではないか。我々が試された時、旅を終わらせることを拒み、後戻りすることも、くじけることもなかった、と。そして、地平線と神の慈しみをしっかりと見つめ、自由という偉大な贈り物を運び、未来の世代に無事に届けた、と。

このように、共通の敵を示し、過去から未来へと、長い時間軸を提示することにより、陶酔作用と団結力が喚起されると思うのである。


 ありがとう。神の祝福が皆さんにあらんことを。そして、神の祝福がアメリカ合衆国にあらんことを。現代を生きるすべての生命、そして未来に生まれるすべての生命にあらんことを。

(2009年1月21日02時50分 読売新聞)




話法に関する感想

読み終わってみて感じた文章の特徴として、「と私は思う」という語り口にせず、「〜である」という「断定」や、「〜しなければならない」という「教条」的な話法で、かつ、心地よい音楽性を持ったリズムで語りかけていることが挙げられるでしょう。また、weやusが多用されています。これらの手法により、個々がよほど自覚的でない限り、話者の話の内容をフレーム化しにくくなり、その結果大きな一体化した自我の渦が生じやすいと思われます。これには長短両面があるでしょう。つまり、こういう時には事態が急激に変化していく傾向があると思われます。その行方しだいでは極めて危うい状況に陥ったり傷口を広げることもあるのでしょう。ヒロイズムは、人々が自身の自我で背負いきれない、いわば「神頼み」的メンタリティーに陥ってしまうくらいに厳しいと「主観的に」感じてしまう状況において喚起されやすく、そういう状況下において、こういうスピーチは人々の心を捉えやすい傾向があるように思われます。ナチスの時はどうだったのでしょうか。そのうち調べてみようと思っています。「と私は思う」という語り口の場合には、他者(異なる主張)の存在を前提としているため、冷静にオープンな議論がなされやすいという長所があるでしょう。短所としては、例えば、「私」と「あなた」の境界が明確になりますから、一致団結しにくいということが挙げられるでしょう。


内容に関する感想―オバマスピーチを鏡として日本を見る

内容に関しては、ブッシュ前大統領の時の方向性と比較すると大きく変化しましたね。しかし、オバマさんの登場云々に関わらず、アメリカは多少の時期の前後はあったとしても、こういう方向に進むことになっていた気がします。それはさておき、オバマさんは、精悍で誠実さが前面に出ていて、一人の人間として非常に好感が持てますね。さらに、種々問題の責任を個々が我が事として引き受けて、自分たちが創るんだというオバマさんのメッセージはとても素敵だと思います。

私(たち日本人)は、この精神態度をぜひ見習いたいものです。政治を我が事として引き受けずに他人任せにしておいてえらそうに愚痴りまくる風土、あるいは無関心な態度*4が根づいてしまっている気がします。自身の現状に対するさまざまな不満のぶつけどころを政治に求めているように見受けられる、いわゆる八つ当たり的な人もいます*5国民主権の尊さや危うさ、その意味が十分に浸透していないのかもしれません。日本の今の民主主義は自分たちの手で獲得したものではないため、ありがたさが身にしみてわかっていないからなのでしょうか。支配・被支配関係の自我の有り様に落ち着いてしまって主体性に欠けている人が多いように見えます。自分でやるのはいやだから無意識的に支配されたいと思っている人が多いからでしょうか。多くの人が長年に渡って支配されていたため、支配に慣れてしまっていて、そういうメンタリティーで愚痴っているのが心地よいからなのでしょうか。マスコミとの接し方が下手だからなのでしょうか。今の日本の政治に問題点があるとすれば、国民主権である限り、その責任は我々一人一人にもあるのでしょう。一方で、着実によくなっている面も多々あります。問題点ばかりを見るのではなく、恩恵にも目を向けるべきでしょう。問題はいつの時代にも存在します。各々の時代の問題をその時代を生きる人々が責任を持って協力して知恵を絞って解決していけばよいのでしょう。愚痴っている暇があるのなら、各々ができる範囲で学ぶべきだし、考えるべきだし、動くべきでしょう。私は、例えば新聞を読みますし本も読みますが、政治に関して未だ相当の無知です。実務経験はありません。従って、現時点では仮にそうなったとして、市政であろうが国政であろうが、政治家の職務を全うすることは難しいと思われます。だから、愚痴っている暇があるのなら、少しでも人間のよりよい生き方について学び、考えたいですし、機会を見つけて徐々に経験を積みたいと思っています*6。出来るだけ熟慮して投票したいですし、もしどの政策も好ましくないと言うのなら、そして、さらによい案があるのなら、自分が何らかのアクションを起こせばよいのでしょう。深く知ることなくして愚痴ることは、少し自省できる人であれば恥ずかしくてできないものだと思っています。二世・三世議員云々の問題も、他の魅力的な候補が出てこない風土を築いてきた我々自身の責任という面もあると思われます。今の日本の場合、もう少し政治を我が事として引き受けられる人、つまり、あたかも自身が総理大臣になったかのように物事を見つめるべく努める人の割合が増えるとバランスがよくなるのではないかと思っています*7

しかし、上のようなことを仮にオバマさんが就任演説でおっしゃったとしたら、相当面白いでしょうね。まあどうかしはったん。どこか具合よろしないの?てなりそう。喜劇的国家というのもまた味わい深く・・


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*1:黒字がYomiuri Onrine のオバマ就任演説日本語版全文です。勝手に大統領就任演説を添削することは無礼極まりないことなのかもしれませんが、今回やってみることにより、他人の文章を勝手に推敲するという行為から得られる学びの多さに驚きました。今後も注目度の高い文章や、自分の好きな名文に対して同様の操作を加えてみようと思っています。書写の発展版と言えばよいのでしょうか。より能動的に対象となる文章の特徴をつかみ、吸収できるメリットがあると思います。(特に内容が好ましくない場合には)必ずしもupする必要はないでしょう。

*2:例えば、前者が相対的にナルシズムや陶酔作用、前のめりで攻撃的な自我の有り様が反映された悲劇的にして情熱的、英雄主義的文章だとすると、加筆後は、それらが解毒された平和で微笑ましくかつやかましい喜劇的な文章になったように思われます。元々の持ち味が消えた駄文とも言えるでしょう。真面目すぎると例えば、本当は存在しない敵に脅えてしまうというような滑稽なことになったり、戦争をしてしまったりする危険性があるでしょうし、ふざけすぎると文化、知識、技術などの蓄積が停滞してしまう恐れがあるのでしょう。うまく生きるためには悲劇的要素と喜劇的要素のバランスが大切だと私は思っています。誤解なきよう申し上げておきますが、私は決してオバマ大統領を侮辱したいわけではなく、むしろ失敗から学び、アメリカ人の個々に対して主体性と公共心、丁寧に引継ぎ、築き、継承する意志を喚起させ得る彼ならではの素晴らしいスピーチだったと思っています。具体性に欠けるのは、就任演説という性格上仕方のないことでしょう。

*3:実際、後ほど原文を読んでみたところ、異なるニュアンスの箇所がしばしばありました。

*4:投票率が一つのバロメーターと言えるでしょう。

*5:はい!ここにいますよ!

*6:いや、しんどそうやしやっぱりやめときますわ。

*7:でも実は、政治に無関心な人もある程度いるほうが集団の興味関心のバランスとしてはよいのではないかとも思っているのです。一般に、集団における価値判断や興味関心のベクトルが一様化しすぎると集団の生存という観点からすると危ういと思うのです。無関心になれる人が存在できる社会の状態というのは、そんなに悪い状態ではないということも言えるでしょう。多くの人々が政治に興味を持たざるを得ない状況というのは、歴史を参照しても、「ピンチ」の場合が多いように映ります。